日経エレクトロニクス雑誌ブログ

ARという「神の眼」は許されるか

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2009/09/04 09:56
野澤 哲生=日経エレクトロニクス

 鏡の中に映った自分が,勝手に動き出し,やがて鏡の中から出てきて元の本人に入れ替わってしまう――。ソフトSFやファンタジー系の小説によく出てくる話です。人気作品の「ハリー・ポッター」シリーズでは,鏡の中から出てくることはないものの,鏡の中の自分が亡くなった人と交流したりします。

 日経エレクトロニクス2009年9月7日号の特集「AR(拡張現実感)が家電を飲み込む」は,ある意味,そうした小説の中の世界が現実の家電の世界に起こるのではないか,ということを書いています。詳細は記事を読んでいただきたいのですが,少しだけ説明すると,ARの普及と入れ替わりに,家電のハードウエアの必要性が低下していくことになるだろう,という予測を取材を基に説明しています。

 ARは,テレビなどでも頻繁に紹介されるようになってきたので,ほとんどの方は一度は耳にしたことがあると思います。ARには実にさまざまな実現形態があるのですが,範囲を「目で見るもの」に限れば,AR=リアルタイムの映像重畳技術,といってもよいでしょう。これが,一番身近なのが,他ならぬテレビや映画のスクリーンの中。最近のテレビ番組や映画作品は,実にARのオンパレードです。セットを組む代わりに,青いスクリーンの中で演技や話をして,別に撮影した映像やコンピュータ・グラフィックス(CG)の映像を背景にする,という手法のことです。今や当たり前のように使われています。そのほうが,わざわざセットを組んだりロケをしたりするより「早くて安い」からでしょう。

 この手法を,日常生活の中で使うとどうなるか。もちろん,なんの道具もなしでは無理で,例えばカメラ付きの携帯電話機や,鏡の代わりになるような大型ディスプレイやプロジェクター,そして最近,急速に一般の眼鏡との違いがなくなりつつある透過型のメガネ型ディスプレイ(HMD:head mounted display)などを使います。こうしたディスプレイを通して世界を見ることが一般的になれば,目の前の視界が今のテレビ番組と同様,現実の物体なのか物体の上や後ろに重畳された映像なのか,区別が難しくなっていくでしょう。HMDを使えば,3次元(3D)映像の実現も容易で,テレビ受像機自体を「映像」にすることも可能です。最終的に,「早くて安い」ものが残るとすれば,それはハードウエアのテレビでしょうか,壁に重畳した「テレビ受像機の映像」でしょうか。ディスプレイの中の映像が現実と入れ替わるのも時間の問題かもしれません。

両刃の剣の使い方が重要に

 ARには別のホットなトピックもいくつかあります。それが,「人へのタグ付けは是か非か」という話題。海外でもこれが一番盛り上がるようです。

 タグ付けというのは,AR用ディスプレイを通して見た際に,本や場所,ビルなど実在するものの上やその周囲に,テキストの説明や映像を吹き出しのように表示することです。既に書籍やCDでは一部の携帯電話機で利用可能になっています。特定の場所やビルに,AR用ディスプレイを通してしか見えない広告や伝言を張り付ける,ということも実用化寸前です。

 そうすると,当然,人へのタグ付けも実現しよう,と考える人が出てきます。これは,AR用ディスプレイを通して人の顔を見ると,頭の上や周囲にその人のプロフィールが表示されるといったことです。実現には顔認識技術の精度向上や顔写真のデータベース化などがポイントになりますが,既にスウェーデンのある研究グループは,人へのタグ付けを実現するソフトウエアを開発しています。今のところ,表示されるのは「ランチは12時に」といった他愛ないメッセージや,利用しているSNS(social networking service)のリストぐらいですが。

 もちろん,この,人へのタグ付けが悪用された場合は困ったことになります。ある漫画では,人の顔を見ただけで,その人が隠している個人情報を見ることのできる「神の眼」を持った主人公が登場しました。まさにそうしたことが現実になるかもしれないからです。小学校のいじめのように,誹謗中傷を書いたタグを勝手に体に張り付けられるようなことも起こりえます。そのタグが,周囲の人には見えるのに,それを付けられた本人には見えない,となれば最悪です。使い方次第では,人を深く傷つけることになります。

 一方で,ルールを守った上でうまく使えば,非常に便利そうです。まず,名刺交換の代わりに使えそうです。求職中であること,特定の技能や趣味を持っていることなどを表示すれば,街を歩いているだけで就職活動になったり,同じ趣味の人と知り合いになる機会が増えたりするかもしれません。ラッピング・バスのように,特定の広告を頭の上に浮かべて街を歩くビジネスが登場するかもしれません。守るべきルールは,例えば,表示するタグの内容とそれを見られる人やグループを,タグを付けられる人本人が完全にコントロールできること,と決めれば大きな問題は起こらないような気がします。
 
 既に,こうしたARの諸問題を議論する目的で設立された団体もあります。「AR Commons(AR公共圏)」がそれです(関連記事)。2009年7月10日に開催されたキックオフ・ミーティングでは,やはり人へのタグ付けが話題になりました。そこでは,たとえ何かルールを決めたとしても,そのルールを不正に破る人が出てきた場合に,自衛できる手段が必要といった指摘も出ていました。

 中でも印象的だったのは,マイクロソフトの社長などを経て現在は慶応義塾大学 教授の古川亨氏のコメントです。「ARは軍事技術として,人を殺す技術として発達した技術。だからこそARを民生用途で使う場合には,医療や手術支援など人の命を救うか,人の役に立つ目的に使うべきだ。もし,誰かがARを面白半分に,人を傷つける恐れのあることに使おうとするならば,周囲の人は全力でそれを阻止しなければならない」。

 ARは非常に切れ味の鋭い両刃の剣。使い方次第で,人を救う道具にも,殺す道具にもなるということは,肝に命じる必要がありそうです。

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