人がモノを擬人化するとき,それらはどのような人格を持つか
どのような職業であれ,仕事で使う道具には思い入れがあるもの。以前のブログでも書いたが,宮大工の巨匠・西岡常一氏(1908〜1995)の槍鉋(やりがんな)は,今すぐに使えそうなほど手入れが行き届いている。筆者が教わった和裁の先生は,裁ちばさみに敬称を付けて「長太郎さん」(「長太郎」は,日本橋の刃物の老舗・木屋の製品名)と呼んでいた。自分で作ったものに関してはなおさらだろう。取材で,製品や技術に対して「こいつ」「この人」という呼称を使う方に出会うことがある。そうした人々にとって丹精込めて造った製品や技術は,もはや「モノ」ではないのだなと思う。
彼らがモノを人のように呼ぶとき,どのような人格を思い描いているのか。やや朧気な記憶で恐縮だが,グラフィック・デザイナーの松永真氏は,日本製紙クレシアのティッシュペーパー「スコッティ」のコンセプトを同社の担当者に説明するプレゼンテーションで言うことがなく,とっさに「これは長男,こっちは次男で,こいつが三男。三男はわがままで・・・」と語ったとか。人格を持たせてストーリーを展開させれば,造り手がそこに込めた思いや使われる場面が自然に想像できて楽しい。クライアントが話に引き込まれていく様子が目に浮かぶようだ。
ここでふと思った。松永氏にとってティッシュペーパーは男子なのか? この話には裏がある。当時(1980年代)は,ティッシュペーパーの柔らかさをアピールするためか,箱のデザインには花柄が多用されていた。スコッティのデザインをほかのデザイナーと競うに当たっても“花柄”でありつつ男性にも受け入れられる(男性の部屋に置いても違和感のない)デザインが要求されたという。にもかかわらず,松永氏は線とロゴだけでデザインを構成し,花を捨てた。同氏は,花は女性らしさの象徴で,これがある限り男性向けにはできないと判断したのだ。男の部屋にある(いる)のは男がふさわしい。松永氏が「男性にも受け入れられる」デザインを考えたとき,ティッシュペーパーは男性になったようだ。
そういえば,逆のパターンもあった。「3次元CADは女性向き」という説である(過去のブログ)。読者からは「男女の違いではなく個人差である」といったコメントもいただいたが,「確かに女性の方が楽しんで受け入れる」という方もいる。筆者にはどの説が正しいか分からないが,女性の方が受け入れやすいという説が正しいとすれば,3次元CADは女性的なのかもしれない。それとも女心の分かる男性なのか。
実は筆者には,男性なのか女性なのか気になる存在がある。工作機械だ。直線で構成されたその外観は,体脂肪率の低い男性を思わせる。金属をガリガリ削る姿は「男らしい」。だが,本当にそうなのか? 「マザーマシン」という呼び方もあるではないか。確かに金属を削るという行為自体は豪快だが,ワークの扱いや位置決め,加工精度には繊細さが求められる。このきめ細かさは女性的と言えなくもない。だとすると,「ガリガリ」は肝っ玉母さんの豪快さか。
英語で工作機械は「Machine tool」。仏語では「machine-outil」,イタリア語では「attrezzo di macchina」。Machineもmacchinaも女性名詞だ。もっとも,名詞の男女の区別は発音によるので,あまり参考にはならない。だが,我々がモノを擬人化するとき,知らず知らずのうちに性も与えていないだろうか。男性/女性名詞を持つ言語を母語とする人々は,どのように思考しているのだろう。
「JIMTOF」などの工作機械の展示会に行くと,男性の比率が高い。メーカーの説明員しかり,入場者しかり。プレゼンテーションしたり,パンフレットを配ったりする女性を加えても,圧倒的に男性が多い。その中で機械たちは光を放ち(放電加工機に限らず),自信たっぷりに見える。技術者たちが丹精こめて育てた“姫”なのかもしれない。時代劇に出てくるような内掛を引きずった姫ではなく,例えば「スターウォーズ」に出てくるような宇宙的・近未来的な姫だ。説明員は爺。色とりどりの衣装を身に着けた女性たちは腰元。
そうすると気になってくるのが,工具はどちらかということ。女性が使いこなすのだから男性なのか。それとも・・・。4月17〜20日には,「INTERMOLD2008」(インテックス大阪)が開催される。そして今年は,2年に1度のJIMTOFの開催年だ。このどうでもよい悩みを解決できればと思う。

























