上が間違っていてもそうでなくても,下は懸命に働く
先日,ある企業(もちろん製造業です)のトップの方とお話をさせていただく機会がありました。その方の話のごく一部なのですが「日本では,たいていの人はよく働く。むしろ働き過ぎだ。しかし,その方向が間違っていることもよくある。企業として結果が出せないのは人が働かないからではなく,方向が違うのに一生懸命進んでしまうからだ」といっておられました。
また先週金曜日(2006年3月17日)には,弊誌主催のセミナー「独創する日本の工場」を開催しました。そこで講演されたIDEC常務執行役員の藤田俊弘氏は「安全の考え方は作業者責任から,企業責任に移っている。つまり教育訓練で(生産設備などの)安全な使い方を徹底して事故を減らすことよりも,本質安全を追求する時代になってきている。日経ものづくり(2006年3月号)にも書いてあったが,2006年4月から施行される改正労働安全衛生法もその流れにそったものだ」とおっしゃいました。
以上二つの話がさらに結びついた先が,NHK「その時歴史が動いた」第247回「ゼロ戦・設計者が見た悲劇〜マリアナ沖海戦への道〜」でした。防弾の弱い(というか,ない)旧日本海軍の零戦(零式艦上戦闘機)について,防弾強化の改良を進言したメーカー(三菱重工業)の設計陣に対して「大和魂で戦うから防弾は必要ない」と言ったのは,海軍航空に関して開戦前から指導的立場にあった源田実氏でした。この結果,1944(昭和19年)6月のサイパン島攻防をめぐるマリアナ沖海戦では海軍は大きな犠牲とともに大敗を喫してしまいます。さらに同年10月にパイロットの命を組織的に犠牲にする神風特別攻撃隊の出撃が始まり,零戦はこれにもっとも使われた飛行機になってしまった,というのが番組の締めくくりでした。
ただ,当時源田氏は単に精神論だけを言ったのではなく「みなの意見を聞いてると(軍人として)どうも情けない。日本には大和魂があるではないか。うんと軽くていい飛行機を作ってもらって,我々は訓練を重ねて腕を磨き,この戦争を勝ち抜こう」と言ったようなのです。つまりエンジン馬力などさまざまな制約条件のあるなかで,速度や武装や運動性といった能力と,防弾との兼ね合いを考えると,防弾は二の次にせざるを得ない,という優先順位を示したとみることができます。
零戦には開発時にも設計要件の優先度には議論があって(零戦に限らずあらゆる機械製品にあると思いますが),設計主務者の堀越二郎氏の著書には海軍の担当者のいる会議〔1938(昭和13)年4月〕で「エンジンの性能向上がないと,すべての要求条件を満たせないかもしれませんが,航続力,速度,格闘力の三つの優先順位を海軍としてはどのように考えているのでしょうか」と発言してみたというくだりがあります。このとき海軍側には源田氏が出席していて,もう一人の海軍側担当者(柴田武雄氏)との間で議論が堂々巡りした結果,結局堀越氏は何としても両立するしかないと決心しました(事実,両立しました)。しかし,このときには海軍側にもメーカー側にも防弾の話はまったく出ませんでした。
新鋭機〔1940(昭和15)年制式採用〕だったころの零戦は中国大陸で大変な戦果を上げたほか,太平洋戦争の緒戦でも米英の戦闘機に対して一方的勝利を収めていました。しかし戦場を取り巻く状況は変わります。熟練したパイロットの多くが戦死し,敵が量的な優位を確保しつつあるというように前提条件が変化したにもかかわらず「防弾の弱さはパイロットの腕でカバーできる」という,いってみれば作業者責任の考え方に終始するトップがいたため,海軍航空はその方向に進んでしまいました。結果論ですが,マリアナ沖海戦では日本側の飛行機が持っていた唯一の優位点であった航続力の長さはほとんど生かすことができず,防弾の弱さのみが目立ってしまいました。
1943〜1944(昭和18〜19)年以前の日本で,零戦の防弾性能を高める選択肢が可能だったかどうか(それに伴う他の性能の低下を許容できたかどうか)は,分かりません。零戦に適した大きさで,十分な馬力のエンジンが得られない(この時期の零戦は1000馬力強でした)という設計上の制約条件はあったようです。しかし1944年1月には,陸上基地用ですが2000馬力級のエンジンを積んだ戦闘機「紫電改」が初飛行しています。1年でも半年でも,防弾の優先順位をどう考えるかについて明快な判断が下されていれば,別の方向にもっと早く技術が進んだかもしれません。
源田氏は1945(昭和20)年になって,紫電改で編成した海軍第343航空隊(四国・松山)の司令になります。紫電改の燃料タンクには防弾皮膜が付き,主翼内のタンクには自動消火装置も加わり,操縦席には防弾ガラスなどが装着されていました。343空は技量の優れたパイロットを集めたとも言われますが,それだけでなく無線機を活用して編隊で戦うことを基本とし,退潮著しい当時の日本戦闘機隊の中で目覚ましい戦果を上げました。また,最後まで特攻には加わりませんでした(ちばてつや著「紫電改のタカ」ではラストシーンで主人公が特攻に飛び立ちますが,フィクションです)。源田氏が考え方を変えたのかどうか,単なる歴史の巡り合わせなのかは分かりませんが,零戦の運命とは対照的な立場にいたともいえます。
なお終戦後,源田氏は航空自衛隊で航空幕僚長になり,その後参議院議員を4期務め,1989(平成元)年の終戦の日に亡くなりました。

























