「iPadのことを魔法みたいって言うとみんなに笑われる。でも本当に魔法みたいなところがあって、インターネットやメディアやアプリやコンテンツと、もっとダイレクトで親密になれる…。間にある何かが取り除かれて、なくなってしまう感じなんだ」。

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 米Apple社の前CEOで2011年10月5日にこの世を去ったSteve Jobs氏は、2010年6月の米メディアのインタビューで「ポスト・パソコン時代」に入りつつあると触れた後で、こう語った1)。この言葉を聞かせたかった人がいる。米Xerox社の研究所PARC(Palo Alto Research Center、現在は同社の子会社)に所属していたMark Weiser氏だ。Jobs氏が世界を変えた人物だとすれば、Weiser氏はその予言者だった。今では2人とも鬼籍に入ってしまった。

 Weiser氏の予言はこうである。

 将来、コンピュータは日常生活の中に溶け込み、消えてなくなる。文字通り、様々なモノの中に組み込まれるという意味もあったが、もう一つの含意は利用者の意識から消えるということだった。

 パソコンは、その複雑さや使いにくさで利用者の注意を引き過ぎる。いずれは利用者が使っていることを忘れるほど簡単なコンピュータが登場し、人々は何百ものそれを駆使しながら、あらゆる情報を自由自在に扱う未来が訪れる。そんな環境をWeiser氏は「ユビキタス・コンピューティング」と呼び、パソコンの次を担うものと位置付けた2)。Jobs氏の発言はあたかもその幕開けを告げたかのようだ。

最高の製品を作り上げることを重視

 Weiser氏が存命であれば、自分のビジョンが形になったことを喜んだに違いない。ただ、Jobs氏がユビキタス・コンピューティング時代の先導役になったことは意外に思っただろう。Weiser氏が死去する2年ほど前、米Apple Computer社(当時)のトップに返り咲いた直後のJobs氏は、長期の研究開発を担当する同社の「Advanced Technology Group」(ATG)を解散していたからだ3)

 Apple社でユビキタス・コンピューティングの時代を実現するのは、この部門のはずだった。ATGは当時、ユーザー・インタフェース(UI)の研究で著名な認知心理学者のDonald Norman氏が統括していた。1993年のインタビューで同氏は、「自分のビジョンはユビキタス・コンピューティングに近い。ただ、Xerox社がオフィスでの応用を志向しているのに対し、Apple社は家庭や個人の用途に注目する」と語っている4)

 今から振り返ると、Jobs氏がATGを解散した決断は正しかった。携帯型音楽プレーヤー「iPod」や、コンテンツ配信サービス「iTunes Store」、スマートフォン「iPhone」、タブレット端末「iPad」は、研究所から生まれたわけではないからである。Jobs氏が重視したのは研究開発ではなく、最高の製品を作り上げることだった。その積み重ねが世界を大きく変えた。

 多くの企業や人物が同様なコンセプトやアイデアを抱いていた中で、Jobs氏だけが成功できた秘密がここにある。将来像を語ることと、それを現実にすることは全く次元の異なる話なのだ。他の誰もがビジョンを形にできなかったことが、両者を分かつ溝の深さを雄弁に物語る。発想が製品として成功するには極めて細かい部分にまで配慮が必要であり、わずかな差異が大きく結果を左右する。製品の些細な片隅にも目を配ったJobs氏の執拗なまでの情熱と、時には現実の要請を受け入れ方針転換も厭わなかった柔軟さがなければ、世の中は全く違った姿になっていただろう。