トヨタの変質が端的に現れた出来事は,1999年のF1参戦表明と,2000年の富士スピードウェイ買収であった。F1は,一般のモータースポーツと異なり巨額の費用が掛かるし,かつて常勝であったホンダチームでさえ近年は欧州メーカーになかなか勝てない時代になっていた。創業以来,豊田綱領にあるように「質実剛健の精神で産業報国する自動車を造る」を理念としてきたトヨタのF1参戦はあり得ないことだった。結局,わずか10年で優勝することなく撤退したが,一体この10年間でどれだけのお金をドブに捨てたのか? それは「産業報国」といえるのか?

 トヨタのF1参戦を推進したのは,1995年に同社の社長に就任した奥田碩氏である。F1参戦に反対する歴代社長の豊田英二最高顧問と豊田章一郎名誉会長とのあつれきはよく知られた事実だ。章一郎氏は「F1に勝とうと思って,自動車会社を興したのではない」とまで言ったが,新しい時代の若者の意思を尊重した奥田氏は押し切ったもようだ(中部読売新聞2001年8月31日付朝刊)。

 奥田氏は,F1参戦だけでなく,急激な海外展開や開発期間の大幅短縮の仕掛け人でもある。それらの成果によって,初代「プリウス」を当初予定より2年も早い1997年に世に送り出したという功績もある。「長期雇用あっての成長だ」とか「従業員の首を切る経営者は腹を切れ」などの発言は,長引く経済低迷で意気消沈していた日本を元気にした。しかしトヨタは,奥田氏の指揮の下に猛烈な拡大路線に突っ走り,100年続いた米ビッグスリー体制を瓦解させた。佐吉の語録に「沈鬱遅鈍(ちんうつちどん)」という言葉がある。拙速よりも巧遅を重んじるという意味である。「石橋をたたいても渡らない」と揶揄(やゆ)されたかつてのトヨタの大きな変貌(へんぼう)であった。

自由闊達を求めて

 トヨタの変質の予兆は,1982年にトヨタ自動車工業(トヨタ自工)とトヨタ自動車販売(トヨタ自販)が合併したときに現れていた。トヨタは1950年に労働争議による経営危機に陥り,銀行主導で生木を裂くようにトヨタ自工とトヨタ自販に分離された。同根でありながら30年後に合併してみたら,旧トヨタ自工の社員は旧トヨタ自販の社員の自由闊達(かったつ)さに驚いた。翻って,自分たちは朝から夜遅くまで汗水垂らして合理化一筋。若者を中心に「トヨタはいつまでも我利我利亡者でいいのか?」の声が上がり,社内に大論争が巻き起こった。経営層も,この声を放置すれば21世紀のトヨタを揺るがす大問題になりかねないと考え,組織的に検討を開始した。その集大成として,2つのことが1992年に実施された。1つは,最も自由闊達さが望まれる製品開発部門について,分業が進みすぎた体制から自動車をつくる喜びをもたらす体制の「商品センター制」への移行,もう1つが前述の「トヨタ基本理念」の制定であった。

 トヨタには幾つかの“自主研究会”があり,その1つに1955年に始まった「トヨタマネジメント研究会」がある。文字通り,トヨタのマネジメントの在り方を自主的に集まって研究する会であり,その成果や情報を月刊の機関誌『トヨタマネジメント』に掲載してきた。現在も活動は継続しているが,その内容は1980年代に激変した。それまでは,世界最先端の技術管理技法や事務管理手法を社内で実践的に研究した成果が満載で,わずか50~60ページの冊子ながら読み応え十分だった。だが,1990年代以降はまさに“リベラル”で薄っぺらな内容に変わってしまった。

業務のひずみが品質に逃げ込む

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