人体通信の技術開発や市場開拓が,活発に進んでいる。用途や技術的課題,開発の方向性,市場を作るための要件などを,無線通信や人体通信に詳しいアンプレット代表取締役社長の根日屋英之氏に聞いた。(聞き手は安保秀雄=編集委員)

問 人体通信とは何かを簡単に伺えますか。

根日屋氏 人体を介して機器間で通信を行うことです。人体を媒体として通信するので情報の漏洩は少なくなります。また,無線の空間伝播に比べると伝播ロスが少ないようで,消費電力の少ないワイヤレス通信を実現できます。

問 どのような用途が考えられているのでしょうか。

根日屋氏 戸や扉の施錠・開錠,医療,ヘルスケア,音楽や画像情報の伝送などのエンターテインメント分野,自動車などのキー・レス・エントリ,ウエアラブル・コンピューティングなどへの応用が考えられています。NTTドコモは2008年の春まで,人体通信機能を有する携帯電話端末をポケットに入れ,戸の施錠,スクーターのエンジン・スタート,駅の自動改札の通過,自動販売機での支払いを行うシーンを描いたテレビ・コマーシャルを放映していました。

問 用途や市場の開拓の状況はどうでしょうか。

根日屋氏 これまで多くの企業が人体通信の応用に取り組んでいますし,実際に試作もしています。例えば,電機メーカーや携帯電話会社,オフィス機器メーカー,自動車メーカー,住宅会社などのさまざまな企業が,前述のような鍵の施錠・開錠の人体通信キー,小売店のレジスター,エンターテインメントの分野における映像,音楽,文字情報の伝送・共有などのデモを行っています。この3月に行われた「Security Show 2009」や「IC Card World 2009」でも,人体通信に関するデモをいくつかの会社が行っていました(本誌注:関連記事1関連記事2)。

 最近,問い合わせが多いのは,センサ・ネットワークへの応用です。産業用のセンサ・ネットワークにとどまらず,医療・ヘルスケア分野でも注目を集めています。センシングした生体情報を人体を介して機器に取り込めることから,医療関係者やヘルスケア会社の方々の期待が高まっているように思います。

電極と伝播特性が通常の無線と違う

問 人体通信には,どのような技術が必要になりますか。

根日屋氏 無線通信の技術と基本的には変わりませんが,人体通信特有の難しさもあります。それは無線のアンテナに相当する「電極構造」と「伝播特性(伝播の考え方)」です。人が動くと伝播特性や電極のインピーダンス特性が変化しますので,いかにその影響を機器側で対応するかが重要な要素技術になります。そのほか,人体通信に最適な周波数,情報漏洩への対策,人体に対する影響,小型化,通信の高速化,多元接続,低消費電力化など,無線通信と同様な技術課題があります。人体を知り,それに合った通信技術を開発しなければなりません。

問 「電極構造」について,どのような方針で解決していくべきでしょうか。

根日屋氏 人体通信で用いる電極の電気的特性がどのように変化するかを把握し,それに適したインピーダンス整合回路や,通信が安定になるような電極構造の検討が必要でしょう。人体通信の通信方式には,「微弱電流を流す電流方式」,「電位を変化させる電界方式」,「人体に沿って電波を伝搬させる電磁波方式」などがありますが,方式によって最適な電極は異なります。

問 「伝播特性」について伺います。

根日屋氏 これについては,本当は実際に人体を用いて定量的なデータを取りたいところです。しかし,いろいろな意味で難しいので,コンピュータ・シミュレーションやファントム(擬似人体)を用いた実験を行い,伝播のメカニズムを探っています。

規格の検討が始まる

問 市場を立ち上げていくための課題は何でしょうか。

根日屋氏 市場に人体通信機器が浸透するためには,規格策定も並行して進めなければなりません。人体通信をユビキタス・ネットワークの一つの通信端末として使うには,他の機器とのインタフェース条件を決める必要があります。このため,人体通信も広義にはBluetooth,ZigBeeなどの短距離無線通信システムと同等に考えても良いと思います。

 国内外でのいくつかの団体や組織で,規格の検討が始まろうとしています。一般に規格を緩やかにするとその応用範囲は広がりますが,ZigBeeのように緩やかにすると異なる企業の機器間での互換性が保ちにくくなります。逆に,規格をあまり厳しく定めると,Bluetoothのように機器間の互換性は保つことができても応用範囲が狭まる傾向があります。人体通信は,その応用範囲は多岐にわたることが想定されますので,機器間の互換性や他のシステムとの整合性なども配慮しながら規格を策定すべきでしょう。

問 NPO法人のウェアラブル環境情報ネット推進機構(WIN)で「人体通信プロジェクト」がスタートし,根日屋さんは副主査になられました。このプロジェクトでは,どのような活動をされていく予定ですか。

根日屋氏 1年目は,プロジェクトに参加していただく方々と,技術課題の対策や市場動向,標準化について,共に勉強する予定です。人体通信を製品化している企業の方に許される範囲で人体通信の製品や技術の話を聞いたり,大学で研究されている先生方の意見を伺ったりできればと考えています。同時に標準化を検討している他の組織との横のつながりを持ち,人体通信に適した規格の策定ができると良いと思っています。

 主査の千葉大学の伊藤公一教授は,2009年5月から電子情報通信学会アンテナ・伝播研究会の委員長に就任される予定で,電極構造や伝搬特性について有益な議論ができると思います。私は無線通信のハードウエアの設計が専門ですが,これまで携帯電話機や無線LAN機器などを市場の黎明期から開発してきましたので,方式設計や機器の回路技術,市場動向などをみなさんと検討していけたらと考えています。

無線100年の歴史を経て登場

問 人体通信は,無線通信の中でどうとらえるべきなのでしょうか。

根日屋氏 無線100年の歴史を振り返ると,人体通信のような近距離無線通信技術の実用化は自然な流れと思います。1901年にGuglielmo Marconi氏が行った電磁波の大西洋横断通信実験からしばらくは,無線通信は遠隔地間の情報の伝送に利用されてきました。通信距離の短い携帯電話や無線LAN技術が普及したのは20世紀末です。

 無線LANは開発当初,「そんな短距離通信のニーズはないよ。日本の場合,事務所は狭いし,パソコンのデータをやりとりするなら,(当時は今のようにデータ・ファイルが大きくなかったので)フロッピー・ディスクに入れて近隣の席の人に渡せばよいのだから…」と言われたものでした。当社は「価格が有線LANの機器並みになれば必ず普及する」と考え,開発を続けてグループ企業が製品化しました。

 その後,無線LANのさまざまな応用が開拓され,市場が成長したのはご存知の通りです。そして21世紀に入り,究極的な短距離通信である「人体通信」が実用化する順番が来たと見ることもできます。



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