「World’s Best and Easiest To Use Jukebox Software」(Apple社の発表資料)と宣言してはみたものの,業界の見方は冷ややかだった。音楽市場への参入が,あまりにも遅かったからだ。既に米国では,パソコンやインターネットが音楽市場にもたらす「革命」の話題で持ちきりだった。一般消費者の熱狂的な支持を取り付けた米Napster,Inc.は,音楽ファイルの交換サービスを巡って,米国の5大レコード会社と激烈な法廷闘争のさなかにあった。革命の舞台と見なされたのは世界にあまねく広まったWindowsパソコンであり,一握りのファン層を相手にするMacintoshは,忘れ去られがちな存在だった。Apple社の発表は,この現状に対するささやかな異議申し立てにみえた。

 Apple社が,携帯型音楽プレーヤの製品化に向けて水面下で動き始めたのはMacworld Conference & Expoの直後である。もしこのときApple社の狙いを聞き付けた競合他社があったとしたら,間違いなく一笑に付しただろう。

 Apple社の構想に似た製品は,既に市場にあふれていた。パソコンの周辺機器を手掛ける米Diamond Multimedia Systems,Inc.は,フラッシュEEPROMを使った携帯型音楽プレーヤ「Rio PMP300」を,1998年に早くも投入している。2001年初めには,多くの周辺装置メーカーが製品をそろえていた。いずれも売れ行きは,はかばかしくなかった。パソコンにつないで使う音楽プレーヤといえば,当時はニッチ商品の代名詞だった。

 何よりApple社は,民生機器市場での実績に欠けた。1990年代初頭に売り出したデジタル・カメラ「QuickTake」は,世界もApple社も変えなかった。携帯型情報機器「Newton」が残したのは,同社がこの製品に冠した「PDA」という言葉だけだった。

Music Is the Core

 それでもApple社には,成功の予感があった。iPodの生みの親の1人で,現在はDirector,iPod and iSight,Worldwide Product Marketingを務めるStan Ngはこう語る。「我々は,当時あった製品に単純に不満を抱いていた。もっといいプレーヤを,僕ら自身のためにも作りたかった。僕らはみんな音楽が好きだから」。

 Apple社には,経営陣から技術者,マーケティング部門に至るまで,生活の一部として音楽が欠かせない多くの社員がいた。ミュージシャンとして活動する人材も少なくない。Stanもその1人だった。チェロにバイオリン,ギターを学んだ。オーケストラに参加し,バンドも組んだ。合唱団のメンバーだったこともある。大学時代にはDJも経験した。「音楽は,いつだって僕自身の一部だったんだ」。