きっと,日本人の管理者が初めて訪れた作業員宿舎には,こうした“危険”が潜んでいることでしょう。作業員宿舎の廊下や階段はとても滑りやすいからです。この作業員宿舎に居住する作業員は,なんと1500人。これほど大人数がひしめく中で,いつも問題になっていたのが,洗い場の確保でした。

 宿舎の1階には,水道の蛇口が数本ありました。他の階にもトイレや洗面台があり,そこにも流し台が設置されていました。しかし,大量の作業員が押しかけると,とても足りません。そのため,多くの作業員が作業員宿舎の廊下や階段で衣類の洗濯や食器類の洗い物ばかりか,頭髪まで洗ったりしていたのです。

 そんな石けんを含んだ排水は,廊下から階段をつたって階下へと流れていきます。しかも,建物内は水はけがあまりよくないため,年中湿っている状態。そのため,階段にはコケが生え,ヌルヌルと非常に滑りやすくなっていたのです。

 そんなことはつゆ知らず,製造部長はサンダル履きで階段を勢いよくダッシュ。この惨事は,当然とも言える帰結でした。

 派手に階段から転落したために,製造部長は脚や腕を擦りむいて血がにじんでしまいました。しかし,その痛みよりも,作業員たちにみっともないところを見られたことに対する恥ずかしさの方が優っているようで,顔を真っ赤にしていました。それでも「転んだことなんて,大したことないよ」という素振りで,肖さんの所在を確認するのです。

「あのさ,肖さんの部屋ってどこですか?」
「確か,3階の302号室だったと思います」
「えっ,3階?」

 腕をさすりながら,製造部長はヌルヌルした階段を今度はゆっくりと上っていきました。それでもサンダル履きのために何度も転びそうになりながら,ようやく3階にたどり着きました。すぐに302号室を探し当て,ドアをドンドンドンとノックしました。

「肖さんいますか?」 

 しかし,何の応答もありません。

「いないのかなあ?」

 ため息をついて後ろを振り向くと,1人の作業員が立っており,製造部長に声を掛けました。

「どうしたんですか?」
「ああ,肖さんを探しているんだけど,いないみたいですね」
「肖さんなら食堂にいましたよ。でも,すぐに戻ってくると思います」
「そう。それでは,帰ってきたらすぐに現場に戻って来るように伝えてもらえますか」
「はい。分かりました。あれ,部長,どうしたんですかその腕は? 血が出ていますよ」
「ああ,これか。今階段で転んじゃって」
「それは大変。ちょっと中へ入って休んでいってください」
「いいよ,恥ずかしいから」
「いいから,いいから」

 日本の女子寮というと,男子禁制の「秘密の花園」的な印象を持つ男性は多いのではないでしょうか。しかし,この作業員宿舎の部屋は,それとは少し雰囲気が異なっていました。多くの作業員は,鞄一つで田舎から出稼ぎに来た人ばかり。彼女たちの出稼ぎの目的はお金を稼ぐこと。一方,工場側は安い労働力を効率よく使いたい。両者の思いが合致して,作業員の生活環境にはあまりお金を掛けないし,掛けようという姿勢もありません。

 しかし,お金を掛けないといいながら,実はまだこうした作業員宿舎はましな方。中国の田舎に行くと,もっとひどいところがたくさんあるのです。下水は垂れ流しでヘドロがたまり,腐った残飯のニオイが立ち込めているなんてことも珍しくありません。日本の駐在員が住んでいる中国の都会からクルマで1時間も走れば,こうした光景を幾らでも見ることができます。

 逆に,この日系メーカーの作業員宿舎は,残飯などが散乱していない分,衛生的と言えるかもしれません。しかし,日本人からすると,とんでもない光景であることには変わりありません。水だらけで湿っぽい環境は,決して作業員たちの身体にも良いとは言えません。中には湿疹のようなものに悩まされる作業員も出てきます。確かに,こうした疾患と作業員宿舎の環境の因果関係がはっきりしているわけではありません。しかし,中国のきれいな所や,表の顔ばかりを見るのではなく,こういった作業員たちの現実の生活を見ることも,工場を管理する上で大切なことなのかも知れません。

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