-新しい技術が創作物の著作権を侵害するのではないかという恐れを感じる必要はないのでしょうか。

  著作権をめぐる長い歴史を見ると,技術が先にあり,法律が後からついてくるものだということがよく分かります。例えば19世紀,写真やレコード,映画といった新しい技術が生まれました。こうした技術が生んだ新しいメディアは,既存メディアの市場の一部を奪いながら新しい市場を開拓していきました。そのとき既存メディアは,最初は静観しているのですが,いざ新メディアが成長して自分たちのビジネスを侵すようになって初めて「我々の資産でビジネスをしているのだから分け前をよこせ」と交渉したり,裁判を起こしたりする。そこで市場取引に基づく経済学的な調整が最初に発生し,それでも解消しない場合に初めて価値判断に基づく法的な調整が行われる。このパターンを繰り返してきたのです。

  新しい技術によって新しいメディアが誕生すると,それに合致した創作物が繁栄し,旧式の創作物が衰退する。これも歴史を見れば明らかです。インターネット時代の創作者たちは,新しい流通手段に合致した表現形式を今後,獲得していくことでしょう。それなのに旧式のメディアによる著作物提供という枠組みに固執して,法による保護を盾に新しい技術を否定するのは何かがおかしいとしか言いようがありません。
  現行の著作権法にはこのようなほころびがあちこちで目立ち始めています。技術開発に携わる人たちには,さまつな問題を気にせず,とにかく素晴らしい技術を生み出し,新しいメディアを発達させることに集中してもらいたいですね。

-私的録画補償金の見直しの議論は着地点が見えてきません。どのような方向が望ましいのでしょうか。

  感動の対価を創作者に渡す。これが著作権制度の本質です。優れた創作物を生み出した人にお金を払わないといけないことは誰だって分かる。自分が感動したコンテンツへの対価がきちんとその創作者に届くことが分かれば,ユーザーは喜んでお金を払うでしょう。

  私的複製については,DRM(デジタル著作権管理)技術による複製制御と,補償金制度を併用するのではなく,どちらか一方にするべきだと思っています。創作者たちに対価を渡すという一つの目的のために二つの手段を用いることは,社会的コストの増加を意味します。二重化の必要はありません。

  手段が二者択一であるなら,補償金制度だけにするのがより良い策だと私は考えます。社会的コストを低く抑えられるからです。ただし,現行の補償金制度には問題が多い。補償金制度は一般に,配分を行うための中間主体がある場合と,透明かつ効率的な配分システムが存在しない場合に非効率になります。今の補償金制度は,まさにこの状況にあります。

  そもそも「補償金」という名前が良くない。著作権が財産権であり,その財産権が複製によって侵害されるという前提だからこういう名前になってしまうのです。