東京女子医科大学 再生医工学分野 助教授の大和 雅之氏(写真)は,東京女子医大を中心とした「細胞シート」による再生医療に関する研究に関して現状の課題と今後の展望について総括した。この記事をもって細胞シート工学の連載を終了する。

 大和氏によると,再生医療は,今までの対症療法的な治療とは異なり,1回の治療で疾病を完全に治す可能性を秘めている。例えば糖尿病の患者にはインシュリンを投与して「治療」することが行われているが,これは治療といっても完治するわけではなく,毎食時インシュリン注射を打ち続ける必要がある。腎不全患者に対する透析も,腎不全の原因を治療しているのではなく,腎不全の症状を軽減させることが目的である。再生医療を現実のものとし少しでも多くの患者を救うため,東京女子医大ではインシュリンを分泌する細胞を始めとした様々な細胞を「細胞シート」状に加工し,これを用いて完治治療すべく様々な技術の開発を行っている。

解析・診断が目的ではなく治療に役立つ再生医療研究が活発化

 遺伝子診断はすでに一部で実用化され始めているが,多くの場合で治療する術がないという問題が露見してきている。1980年代に分子生物学的研究に取り組んだ多くの医学系研究者が,治療に直結できないことにいらだちを感じ,治療のための再生医療研究に眼を向け始めた。また,必ずしも分子生物学に深い関心のなかった外科系の医師たちも移植医療や再建外科との整合性が高い再生医療に大きな関心をもち,再生医療研究に取り組んでいる。

 米国保健社会福祉省(DHHS:Department of Health and Human Services)食品医薬品局(FDA:Food and Drug Administration)の規制では,たとえ一例であっても,再生医療の臨床応用にはFDAの審査と承認が必要であり,申請書類は積み上げると電話帳ほどにもなる。このため米国では基礎研究で見るべきものがあるものの,再生医療に関してはほとんど臨床応用例が無い。日本では,少数例であれば厚生労働省の承認ではなく学内・病院内の倫理委員会の承認のみでヒト臨床応用が可能である。細胞シート工学を活用した再生医療のヒト臨床応用(参考サイト
)では,大阪大学での角膜再生(関連記事),東京女子医大 形成外科での皮膚瘢痕治療に成功している。今後,東京医科歯科大学での歯周組織再生や,既に紹介した東京女子医大 外科医師の大木 岳志氏(食道再生)(関連記事)や東京女子医大 助手の神崎 正人氏(肺胞再生)(関連記事)等の研究も年内に臨床応用をおこなうべく着々と準備が進められている。

日本はいまや医療用デバイスの輸入大国

 世界最大のバイオベンチャーである米Amgen社の立ち上げ時に行われた米国政府の積極的支援にも顕著なように,米国政府はバイオ産業の育成に長年精力的努力を惜しんでいない。これが現在の米国がバイオメディカル産業で圧倒的な強さを誇る一因にもなっている。たとえば,1990年以降日本は医療用デバイスの輸入超過大国となっている。循環器内科医が扱う心臓カテーテルはほとんどが輸入品であり輸入超過の大きな原因となっている。内視鏡をほとんど唯一の例外として,日本の医療用デバイスはほとんどが診断用であり,近年大幅に需要が増加している治療用器具では圧倒的に国際競争力を消失している。このままの状態が進むと自動車等輸出で獲得した外貨を医療分野の赤字から全て米国に戻すかたちにならざるをえない危険がある。米以外の食料品のほとんどを輸入に頼り,さらにますます増大化している医療産業を輸入に依存するのであれば,財政破綻と共に,国民の生命維持にさえ不安をもたざるをえない。このような背景から再生医療分野の研究には大きな期待がもたれている。期待に応えるべく,現行の縦割り体制を抜本的に改定し,先を見通した集学的研究が必要である。

日本発の再生医療を幅ひろく普及

 再生医療をごく当たり前の治療として根治治療の輪を拡げていくためには,移植医療の代替のみではなく,薬物治療の代替を目指す研究も絶対に必要である。例えば東京女子医大 講師の清水 達也氏が取り組んでいる循環器領域(関連記事)では,心臓移植が必要な重症末期心不全を抱える重篤な患者に対する治療にのみ研究を集中するのではなく,もっと軽症な患者であっても,薬が効きにくくなったら「細胞シート」を使うといった新しい治療戦略を目指す必要がある。これには胸骨の切断を伴う開胸手術による移植ではなく,内視鏡手術やロボット手術を活用して骨の隙間から心臓にアプローチして移植を行うような低侵襲移植技術の開発が欠かせない。

 大木氏や神崎氏の細胞シートの活用法は,毎日おこなわれる頻度の高い現行の手術に組み合わせ,手術後の合併症を大きく軽減することを目標としている。大木氏は,癌切除により不可避的に生じる人工潰瘍の早期治療を目的として自己口腔粘膜上皮細胞シートを内視鏡を用いて患部に貼付する技術の開発に成功している。内視鏡メーカとの共同研究により,より簡便に細胞シートを貼付できるデバイスが開発できるかもしれない。また神崎氏は肺に開いた穴を塞ぐ目的で自己皮膚線維芽細胞シートを用いる新規気漏閉鎖術を開発したが,同様に内視鏡手術においてこの技術を活用できると期待できる。この他にも,全自動細胞単離装置や全自動細胞培養装置など,広範な臨床応用に求められる再生医療支援装置は少なくない。

 手術用ロボットに関しては,米国からダ・ヴィンチやゼウスという名前がつけられた装置が市販されている。たとえば閉塞した冠動脈の置換手術でも1500例以上がダ・ヴィンチを用いて欧米では施行されている。肋骨の隙間からロボットマニピュレータを挿入しておこなうことで入院期間の大幅な短縮等の様々なメリットがある。残念ながら日本ではこの分野でも大きく遅れていると言わざるをえない。たとえばダ・ヴィンチを用いたこの手術は国内では認可されていない。米国製のロボット手術装置の部品のほとんどが日本製であるように,要素技術では日本は必ずしも遅れているわけではない。多大な時間を要する最終商品へのアセンブルと商品としての認可に取り組む企業が現れないことが一つの問題だと思われる。医工連携,産学連携のさらなる推進でこのような問題を打開することが強く望まれている。

 今回の連載では紹介できなかったが,東京女子医大では角膜上皮に代表される種々の上皮幹細胞の研究を展開している。将来的には色々な細胞に手を広げたいと考えている。また,胚性幹(ES:embryo-stem)細胞の臨床応用は5年以内にスタートするとの展望のもと,ES細胞から作製した心筋細胞や肝実質細胞からどうやって組織構造を再構築するかに注力している。東京女子医大のグループとしては,細胞をシート状に加工して,細胞シートから組織を作るという戦略に集中し,三次元化技術,移植技術等を多角的に検討している。

現在の再生医療は,80年代の半導体と類似

 半導体は製造技術とその性能がきわめて良くリンクしており,日本は何度か大成功をおさめた経験をもっている。手作りで低い歩留まりと信頼性しかもたなかったトランジスタに対する常識を払拭し,ポータブルトランジスタラジオを作り上げ大ヒットさせたのは日本のソニーである。また日本の半導体産業は1980年代にはDRAM(記憶保持動作が必要な随時書き込み読み出しメモリー)の集積密度を大幅に増加させ多くの外貨を獲得した。手作りの不安定かつ高価格の製品を,工場の徹底的な自動化と無人化によりきわめて安定で低価格な商品へと激変させたこの過程は,今の再生医療が希求するものである。医師が通常の診療後,深夜に再生医療のための細胞培養をおこなっているというのが現状である。少数例であるからこそ可能であるが,このような献身的な努力により実現している再生医療技術で薬物治療を代替することなど不可能である。種々の自動化技術の導入により徹底的に製造コストを下げ,また最終産物の信頼性を高く維持するといった,半導体産業が追求し成功した過程を追随する必要がある。

 このように,再生医療にも種々の産業用ロボット技術の導入が必要である。日本は元来製造装置産業,ロボット産業には強い。日本企業が再生医療向けの自動化装置開発に本格的に取り組めば,世界でも屈指の競争力をもちうるはずである。ソニー,ホンダ,トヨタ自動車など日本が世界に誇る企業がバイオメディカル領域に本格的に参入すれば,絶対に日本のこの分野は強くり,医療産業における莫大な輸入超過の解消さえ期待できる。日本人の体型や体質,疾病にあった医療を現実のものとするためにもさらなる日本のバイオメディカル産業の強化に期待したい。すでに小柄な女性には米国製ペースメーカの埋め込みができないといった問題が指摘されているが,ウォークマンなど小さく作ることには定評のソニーなどの日本企業には十分小型なペースメーカを作れるものと期待する。同様に,日本有数のものづくり企業が再生医療に参入してくれることを切に願っている。

再生医療は,専門主義から集学的な発想への転換を促す

 女子医大のグループは,地道に再生医療を積み上げることで,いつか再生医療が一気に花開くものと信じている。細胞そのものの研究から,組織の再構成技術などの生物学的研究から,細胞シート移植用ロボットデバイスや全自動細胞培養装置などの再生医療支援機器の開発まで研究の対象を広げていくことで,再生医療を現実の治療に役立てるべく努力している。大和氏自身は細胞生物学者であるが,実際に診療をおこなっている多くの医師と組んで研究・開発をおこなっている。さらに最近ではロボット工学の専門家とも共同研究を開始した。今の日本では多くの研究者が悪い意味での専門主義に落ち込んでいると指摘されるが,再生医療の実現には集学的な研究こそが求められており,その要素技術では日本は決して劣っていない。求められているのは,クリーンルームで分子生物学の教科書を読みながら半導体リソグラフィーの実験をおこなうといった態度である。所属する東京女子医大先端生命研所長であり細胞シートの作製に必要な温度応答性培養皿を開発した岡野光夫教授は学生時代には高分子合成が専門であったが,今では講演を聴いた多くの聴衆が外科医だと勘違いするという。このような集学的体制なしには医工連携はなしえない。

「細胞シート」を含めた日本の再生医療の市場

 再生医療の市場については,経済産業省が2010年に10兆円の再生医療市場があるという予測を数年前に発表している。現状の医療費が総額30超円程度であることを考えると,多くの研究者がこれは余りにも楽観的な予想だと感じている。現行の医療費引き締め政策もあり,多くの研究者は悲観的である。しかし大和氏は,再生医療の市場は2030年10兆円と予測している。移植医療の代替やガン切除後の合併症の軽減等の他,対症療法的な薬物治療の1/3を再生医療が置き換えると大胆な予測を行っている。

【写真】東京女子医科大学 再生医工学分野 助教授の大和 雅之氏
【写真】東京女子医科大学 再生医工学分野 助教授の大和 雅之氏