【前回より続く】

仕事力を構成する大きな要素として交渉力があります。企業組織では自分一人で自己完結できる仕事は極めて少なく,周囲の人と協力しながら行うのが大半です。その際,それぞれの立場から生じる価値観の違いによって,さまざまな利害関係が出てきます。企業の内外を問わず利害関係をきちんと調整する交渉力の在り方が,その交渉者の仕事力の評価に大きく影響します。優れた交渉力を持つことは,個人においても企業組織においても重要な課題です。

 NさんはA社の新製品開発プロジェクトで,電子回路の基本設計を担当するチーム・リーダーです。電子回路の設計は使用する電子部品の特性によってある程度は標準化されていますが,特殊なニーズの場合は電子部品の新規開発も発生します。

 Nさんのプロジェクトでも当初は使用実績のある既存の電子部品を前提とした設計を進めていましたが,競合他社との差異化のために機能と性能の向上を狙って基本仕様を変更することになりました。変更は商品戦略上で決定されたことであり,Nさんのチームも新たな目標に向かってプロジェクトを進めることでまとまりました。

 しかし,仕様変更のために新たな課題が発生したのです。新たに電子部品の開発を依頼した専門メーカーのB社から提示された納品期日では,プロジェクトの後工程のスケジュールが大幅に遅延することになり,プロジェクト全体の完了納期に影響が出ることが予測されます。B社の開発担当者の言い分としては,新規の要求仕様なので,技術的な検証も含めて相当の時間が必要とのこと。Nさんは,電子回路設計の責任者として打開策を講じる必要があります。プロジェクト・チームの目標達成のためには,B社との交渉だけでなくプロジェクト内部の合意形成も必要と思われます。

 Nさんはこうした交渉を過去に何度か経験していますが,今回のB社の担当者であるEさんは技術者としての自負心も強く,ダメなものはダメとはっきりものをいうタイプです。Eさんには発注者と受注者という“暗黙の強制”は通じそうにもないと,Nさんは感じています。

信用や信頼関係を壊さない対応を

 Nさんはこの事態に対して,どのように交渉を進めたら,目標を達成することができるでしょうか。いつものように四つの案を以下に提示しますので,皆さんもどれが最適な案か考えてみましょう。

A案:自分も技術者の立場はよく理解しているので,Eさんに共感するところが大いにある。ここで無理に納期の短縮を要求すると,部品の品質のみならず,結果的にプロジェクトに悪影響を及ぼすことも想定できる。むしろA社のプロジェクトの工程の中で吸収するように,プロジェクト会議で検討することを提案する。

B案:Eさんの言うことは理解できるが,それではプロジェクトの納期が守れない。Eさんが動けないのであれば,Eさんの上司に状況を説明し,なんとか短縮してもらえるように対応策を要請する。

C案:どうしてもB社が対応できないというのであれば,B社との取引を打ち切り,他の開発ベンダーに切り替えて交渉を開始するしかない。

D案:B社の技術力を評価して選択した背景もあり,B社への信頼感を前面に出して交渉する。Eさんに今回のプロジェクトの重要性や目的について入念に説明する一方で,納期短縮の阻害要因について状況を聞き,その内容を共有化する。そして,どうすれば納期を短縮できるか,双方で可能な解決策について粘り強く検討する。

 四つの案のうち,皆さんはどれを選択したでしょうか。では,それぞれの案の問題点や改善すべき点について解説します。

 A案は,同じ技術者としてEさんとの共感性を重視しているところはよいのですが,プロジェクトの目的や目標を達成できるかという観点では不満足です。これでは,交渉を回避し,安易に妥協しているといえます。

 B案は,Eさんを交渉相手として不適切と判断しています。Eさんの立場から見ると,Nさんは高圧的な交渉姿勢であることは否めません。長い間,取引関係があるEさんのメンツを潰し,たとえ今回は上司を交渉相手にして言い分を押し通しても,今までに培われたB社やEさんとの信頼関係に禍根を残すことが懸念されます。

 C案は,交渉相手のEさんだけではなく,B社との関係も壊す方法といえます。長い間の取引によって培われた企業間の信用や信頼関係を壊します。B社を選択した理由が明確であればあるほど,新しい開発ベンダーを探すリスクは大きいのです。良好な関係にある企業に対する短絡的な姿勢は,企業としての信用を下げることにもなります。

 D案は,プロジェクトの目的や目標を達成するには,最も実現性の高い案といえます。Eさんの開発納期の見通しを技術者の慎重な姿勢と受け止めて理解するとしても,それらの阻害要因がどのようなもので,どうすれば解消できるかという解決策について踏み込んで検討すべきです。新しい仕様による部品開発がEさんの仕事の目標とどう関係付けられるのか,Eさんの仕事への価値観にまで踏み込んで双方が目的や目標を共有し,共感できるような交渉をすること,つまり“話し合い”をすることが重要になります。

交渉の基本とは

 交渉を分かりやすく表現すると,個人あるいは組織の間で発生した意見の相違を,話し合いによって双方が納得して合意するための行為です。個人の生活の場でも仕事の場でも,交渉は大小を問わず発生します。特にマネジャーやリーダーは,仕事のさまざまな局面で交渉力が期待されることも多くなります。優れた交渉力を持つことは“頼りになるリーダーの条件”といっても過言ではないでしょう。

図1 仕事の場におけるコミュニケーション行動の展開
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 交渉スキルはネゴシエーション・スキルともいい,コミュニケーション・スキルを構成する要素の一つです。仕事の場でのコミュニケーション行動は,五つのスキルで構成されています(図1)。すなわち,①ヒアリング/インタビュー・スキル,②ディスカッション・スキル,③ネゴシエーション・スキル,④ドキュメンテーション・スキル,⑤プレゼンテーション・スキル,の五つです。交渉力とは③ のネゴシエーション・スキルを行使する力を意味し,他の四つのコミュニケーション・スキルとも大きく関係します。

 企業内でのプロジェクト活動を例に,コミュニケーションとネゴシエーションの関係を説明します。通常,プロジェクトが計画段階を経て実行段階に入るときには,キックオフ・ミーティングを開催します。これは,プロジェクト・マネジメントにおける重要なイベントで,プロジェクト関係者の役割の理解を深めるためにプロジェクトの目的や目標,意味,期待などに関する情報を伝えます。キックオフ・ミーティングによるコミュニケーションの目的は,プロジェクトに関する情報を共有し,プロジェクト関係者にプロジェクトの目的や目標に対する理解と共感を呼び起こすことです。プロジェクト・マネジャーの真摯な姿勢が信頼感を育み,責任感に満ちた積極的なチームづくり,すなわちチーム・ビルディングにつながります。

 順調にスタートしたプロジェクトでも,進んでいく過程でさまざまな問題が発生します。この問題をリスクといいますが,リスクはプロジェクト内部の問題だけでなく,プロジェクト外部との利害調整,つまり交渉(ネゴシエーション)が必要な場合にも多く発生します。どのような交渉も,相手との話し合いによる合意が不可欠です。複雑な問題解決にはさまざまな交渉が必要になり,それだけ交渉が難しくなります。