【前回より続く】

人間社会の中で生活する以上,他人との関係を断ち切って生きていくことは極めて難しいといえます。古代の狩猟時代でも,獲物を得るために群れを組んで共同生活を営んでいたことは,当時の遺跡からも理解できます。数万年も前からコミュニケーション力が大切だったことは言うまでもありません。複雑に高度化した現代社会を維持する上でも仕事を効果的に進めるためのコミュニケーション力を高めることは,組織としても個人としても重要な課題です。

 現代において「コミュニケーション」という言葉は,あらゆるところで使われています。広辞苑などでは,コミュニケーションのことを「情報の伝達」という意味で詳しく説明していますが,一言では説明しきれないほど多面的な要素があります。今日のようにコミュニケーションが重要視される背景には,社会や経済の発展に伴って人々を取り巻く環境が大きく変化し,人間関係も広範で複雑になっていることが考えられます。加えて,企業も活動がグローバル化することで,異文化とのコミュニケーションの難しさを経験するようになっています。

 企業人の目的の一つは,仕事を通して組織に貢献することです。企業組織では,組織が掲げる目的や目標を正しく理解することが重要になります。顧客とのビジネスの関係においても企業組織内の活動においても,適切なコミュニケーションが目的や目標の正しい理解を促進させます。

 コミュニケーションを行うのは,当事者間の認識を共有化して共感性を高めることによって,行動のベクトルを合わせるためです。その本質は目的や目標を共有化し,相互に理解し合い,納得することによって共感する点にあります。共感した結果,行動に移すことにコミュニケーションの本質があるともいえます。頭では理解したものの,それが行動に表れていなければ,コミュニケーションが意味をなさなかったことになります。言い換えれば,コミュニケーションとは納得して行動を起こすための言葉による働き掛けといえます。

コミュニケーション不全の事例を見る

 ここで,コミュニケーションがうまくいかずに,組織活動を円滑に進められなかった例を見てみましょう。

 Nさんは,電子機器開発部門のマネジャーです。部下の一人に,高い技術力を持っていますが,対外的なプレゼンテーションなどの場面では必ず尻込みするEさんがいます。担当は,組み込みソフトウエアのプログラム開発です。

 Eさんは,その理知的な風貌から優秀であろうことは容易に想像が付き,“かなりできる人”という印象です。ただ,「かしこまった場面で,他の人と話をするのが苦手」といいます。本人の言い分ですが,子供のころから人前で話をするのが苦手だったということです。

 マネジャーのNさんは,Eさんを次のリーダー候補と考えていますが,現状ではリーダーとしての役割を任せることはできないと思っています。そして,Eさんの「コミュニケーションが苦手」という意識をどうすれば払拭できるのか,日ごろから考えていました。しかし,Eさんとの話し合いは毎回堂々巡りになってしまいます。Eさんの心に語り掛けることができない自分の説得力に,Nさんはもどかしさを感じていました。

 Nさんは,最近学んだコミュニケーション力を高める方法の中に積極的傾聴法があったことを思い出し,実践してみることにしました。ここはじっくりとEさんの話を聞こうと,腹を据えました。以下はNさんとEさんの会話の様子です。

N「Eさん,少し話をしたいのですが,今,ちょっといいかな」

E「今は忙しいのですが…。どういうお話ですか」

N「君のコミュニケーション力で,気掛かりなことがあってね」

E「どんなことでしょうか」

N「先日のA社への提案のことを覚えてる?」

E「はい,それはよく覚えています。お客様へのプレゼンをお断りした話ですね」

N「そう,実はそのことに関してなんだけどね」

E「それは自信がないのでと,ご説明しましたが…」

N「それは聞いたよ。でも,君にはそろそろリーダーの仕事をしてもらいたいんだよね。そうなると,客先でのプレゼンなども重要な仕事になってくるし」

E「何とおっしゃられても私はプレゼンには自信がありませんし,関心もないのです。今は開発業務に専念したいんです。リーダーは,ほかの方にお願いしてください。それと,今は忙しいので,お話は今度にしていただけませんか」

N「うーん…(またしても,いつものパターンに)」

価値観の違いを認識する

 Nさんの気持ちとは違って,Eさんのかたくなな態度は変わらないようです。このような気持ちの擦れ違いはよくあることですが,今後,Nさんはどうすればよいかを考えてみましょう。EさんとのコミュニケーションがうまくいかなかったNさんは,今後の接し方を自分で整理してみました。皆さんは次のうち,どの案を選択しますか。

A案:Eさんのかたくなな態度からこれ以上求めても無理とあきらめて,専門分野の仕事に専念してもらう。

B案:Eさんに期待していることをもっとしっかり説明し,前向きに気持ちを切り替えるように説得する。

C案:やるかやらないかはEさんのやる気の問題なので,その気になるまで待つ。

D案:積極的傾聴法と言いながら,ついつい自分の気持ちを優先したことがまずかった。機会を改めて,Eさんの気持ちを尊重して会話を展開する。

 さて,いかがでしょうか。答えを言うと,D案がマネジャーとして取るべき態度です。平易な事例なので読者の皆さんもお気付きだと思いますが,本連載の第3回(2010年11月29日号)で触れたように,個々人の価値観が二人の考え方に影響を与えているのです。

 人にはそれぞれの価値観があり,それが自分と他人で違うことは当然です。コミュニケーションが苦手な人は,うまくやろうという意識と失敗を恐れる気持ちが強く,一歩踏み出せない場合が多いようです。Nさんはマネジャーとして部下のEさんのことを心配し,本気でなんとかしたいと考えているのですが,Eさんは現状の仕事のやり方でもなんとかできると考えています。従って,嫌なことや苦手なことに無理して取り組むことに,Eさんは価値観を感じていないのです。一方,NさんはEさんの苦手意識を払拭して良い部下を育成することが,組織にもEさんにも最適だという価値観を持っています。

 この事例で,Nさんのコミュニケーション行動には三つの問題があります。まず,相手の状況をよく見ていないことです。次に,相手の状況や言葉からフィードバックされる情報を生かしていないこと。Eさんが発する言葉の端々に,コミュニケーションを拒絶しようとしている雰囲気が読み取れます。忙しそうであれば,場を改めて出直す必要があります。そして3番目の問題が,相手の価値観を見過ごしているところです。権威や親切を押し付けても,人間関係が断裂してしまいます。人は自らの意思によればどんなに困難なことでも積極的に取り組みますが,やりたくないことを強制されるとやる気が起きないのです。

正しいコミュニケーションを再現

 では,あらためてNさんが取るべきだったコミュニケーションの在り方を再現してみましょう。

N「Eさん,今,ちょっと話をしてもいいかな」

E「仕掛かり中の仕事がありまして…。30分後でしたら大丈夫ですが,よろしいですか」

N「ああ,それでいいよ。では,一段落したら私の席に来てください」

E「分かりました。ところで,どのような話ですか」

N「実は相談したいことがあって,君の話を聞きたいんだよ」

E「分かりました。では,後で参ります」

 Nさんは空いている応接室を確保して,Eさんを自分の席で待つことにしました。

E「先ほどは失礼しました」

N「忙しいところ,ありがとう。応接室が空いていたので,そちらに移ろう」

E「応接室ですか。ちょっと緊張しますね。難しい話なのでしょうか」 

N「いやいや,そうではないよ。私が部門の教育係を担当していることは,君もよく知っているよね」

E「ええ,それは知っています。Nさんは人材育成に熱心なマネジャーだと,リーダーや先輩方から聞いていますから」

N「それは,どうも。で,これからの開発者の人材育成についてEさんが考えていること,気付いていることを聞かせてもらえないかな」

E「分かりました。個人的な意見になると思いますが,いいですか」

N「もちろん,大いに結構だよ」

E「私が自分勝手に思っていることなので,あまり参考にならないかもしれません」

N「参考になるかどうかは,気にしないでいいよ」

E「分かりました」

 二人は応接室に移動します。

E「では,私の考えを話します。Nさんもご存じだと思いますが,私も含めて我が社の技術者は,技術力はあるが営業力がないと,よくいわれています。その理由の一つには,営業的な活動に関心が薄く,自分の仕事ではないという意識が根底にあるからだと思います」

N「そこが,我が社の技術者が改善すべき点ということだね」

E「そうだと思います。自分自身のことになりますが,営業的なことはどうも苦手です。例えば提案のためのプレゼンとかは,特に苦手ですね。正直言って,あまりやりたくない仕事です」

N「なるほど。君のような優秀な技術者でも,そうなのか」

E「営業の人と顧客に出向いたときなどに営業の難しさをいろいろ聞いたりすると,尻込みしたくなります」

N「そうだろうね。自分でも少し苦手だと思っていると,なおさらだろう」

E「Nさんは以前,営業技術部門で活躍されたと聞いていますが,もともとは技術者のご出身ですよね。営業職に近いところでの仕事に不安はありませんでしたか」

N「いや,あったよ。最初は不安だったし,実際に失敗したこともある」

E「そうですか。それを乗り越えて,今日があるというわけですね。私も現状のままで良いとは思っていないのですが,何となく不安なのです」

N「そこのところを,もう少し具体的に話してもらえるかな」

E「具体的にと言われますと,あまり具体的にはないです。今まで,嫌なことや苦手なことは避けていましたから。つまり,どうせできないと思い込んでいる消極的なところがあります」

N「重要なところに気が付いたね。実は,私もそうだったんだよ」

E「そうですか,自分だけかと思っていましたが,Nさんでもそういう悩みがあったのですか。ちょっと安心しました。私のように消極的な人間でも,営業力をつけることができるでしょうか」

N「もちろん。君は優秀な技術者だから,その上に営業力をつければ,まさに鬼に金棒だよ」

E「相談したいと言われながら自分の相談になりましたが,おかげさまで少し方向が見えてきたような気がします」

N「Eさんの悩みは,ほかの人にも共通することではないかな。これから具体的にどのようなスキルを身に付ければいいか,君の考えを聞かせてくれない? それも参考にして教育支援プログラムを検討しようと思っているのだが,協力してもらえるかな」

E「喜んで協力します。その支援プログラムに,私もぜひ参加させてください」

N「最優先で推薦するよ。Eさんが先頭になって取り組んでくれれば,きっとほかのメンバーの意識も変わって積極的になると思う。そうなれば我が社の技術部門の営業力が高まり,お客様や社内の他部門からの評価も向上するんじゃないかな。ぜひ実現させよう」