東日本大震災のその日、僕は米国にいました。テキサスで、現地のNIST/ASTM(米国標準技術研究所/米国材料試験協会)と日本の科学技術振興機構(JST)が共同で開催した研究会に参加し、レスキューロボットの実験をしていたんです。
ちょうど帰国する日の真夜中でした。日本で大変なことが起きていると、連絡をもらったんです。テレビをつけると、津波がビニールハウスをのみ込みながら内陸部へ進む様子と、千葉県市原市のコンビナート火災の様子が繰り返し映し出されている。レスキューロボットの開発者として一刻も早く日本に帰りたい、そう思いました。
成田空港に着いたのは、震災翌日の土曜日夕方4時くらい。そこから、同じ千葉県にある大学まで約4時間かけて戻り、すぐに出掛ける準備をしました。もちろん、被災地へ、です。
そして、日曜日の夜7時くらいに10日分の水や食料を持って出発し、月曜日の午前10時すぎに仙台市に入りました。誰かに頼まれたわけではありません。
〔以下、日経ものづくり2011年6月号に掲載〕(聞き手は本誌編集長 荻原博之)
千葉工業大学 未来ロボット技術研究センター 副所長