僕がちょうど小・中学生のころでした。当時住んでいた三重県の四日市市では、田んぼの中に突如、タワーだとかタンクだとかが一斉に建ち始めた。そう、石油化学コンビナートです。複雑な配管を巡らした建物は、まさに工場萌えの世界。今はもうほとんど見なくなりましたが、煙突の先端ではフレアスタックといって、火がチラチラと燃えている。その昔、仁徳天皇が民衆のかまどから立ち上る煙を見て、「民の竈は賑わいにけり」と詠ったそうですが、当時の四日市もそれは活気があった。子どもながらに、非常に強い衝撃を受けたことをよく覚えています。
こうした経験から、僕は、将来はプラントを造る技術者になりたいと思うようになり、大学で化学工学を学び、卒業後は石油化学会社の三菱油化(現・三菱化学)に入りました。配属先は、稼働開始を目前に控えていた鹿島コンビナート。1年ちょっと実習した後に、念願のプラント建設のプロジェクトチームに加わったんです。ところがその途端、プロジェクトが延期になってしまった。忘れもしない、1973年の第1次オイルショックの時です。
〔以下、日経ものづくり2010年5月号に掲載〕(聞き手は本誌編集長 荻原博之)
三菱樹脂 取締役社長