日経ものづくり ものづくりインタビュー

私が考えるものづくり

齊藤 十内
日本スピンドル製造 代表取締役社長

外に出ていた現場を取り戻し
かつての先進工場を復活へ

さいとう・じゅうない
1971年住友重機械工業入社,1999年同社常務執行役員,2000年新日本造機社長,2004年6月日本スピンドル製造社長,現在に至る。

JR福知山線事故の直後に多くの社員が救助に駆け付けたことで注目を浴びた企業は 88年の歴史を持つ,戦前から戦後にかけての先進ものづくり企業だ。 高精度な加工を手掛け,自ら技能員養成所を持って技術を伝承していく。 いつしかその取り組みは途絶え,最も大事であるはずの工程を外注し,現場を失っていた。 歴史を知る社員がいなくなる直前,再びものづくり強化に乗りだした。

 豊田喜一郎氏が当社の社長だったことがあります。1939(昭和14)年のことですが,同氏は当時豊田自動織機製作所の常務取締役でした。当社が造っていた「スピンドル」は糸によりをかけるとともに,できた糸を巻き取る部品で,これが紡織機のキーパーツだったというつながりです。毎分1万8000回転という高速のため高い寸法精度が必要で,さらに長持ちさせるため金属材料と熱処理についても工夫を凝らしていました。つまり,当時から豊田自動織機製作所の流れをくむ高度なものづくり企業だったわけです。  戦後しばらくの間も,ものづくり企業として名をはせていました。ですから,福知山線事故の救援活動で当社の名前が報道されたとき,ある程度以上の年齢の方からは「久々に名前を聞いた」と言っていただきました。

本当は自分たちで造りたい
 私が就任した2004年には業績は不振でしたし,事業構造を転換しきれずに苦しんでいる状況でした。工場の敷地は広いのですが,実際にものを造っている建屋は三つぐらいしかない。コストを安くしたいからと,製品品質のカギを握るような部品や工程まで外注に出してしまい,自分たちで直接手を動かしている人がいない。要するに,工場でありながら現場がなくなっていたんです。
 その一方で「本当は自分たちでものづくりをしたいのだ」という精神が残っているのも感じていました。そこで「原点に戻って,大事なものは自分たちで造ろう」と声を掛けることにしました。それから,一人ひとりがだんだんと,どうしたいのかをそれぞれの言葉で具体的に語るようになりました。