岡野庄太郎氏は、進学した高校のラジオ部で無線技術に初めて触れた。鉱石ラジオや並4ラジオ、スーパーへテロダイン・ラジオの原理や作り方を学ぶ。戦後、間もないころ。街にはまだ、敗戦の影が色濃く残っている。しかし、岡野青年の瞳は、ひかり輝いていた。遠く離れた人の声を運ぶ小さな箱が、明るい未来を感じさせてくれたからだ。時が過ぎるのも忘れるぐらい打ち込んだ。そのため無線技術を習得するのに、そんなに長い時間は掛からなかった。

 その後、理工系の大学(電気通信大学)に入り、無線以外のエレクトロニクス技術も学ぶ。そのころには、「ラジオを作ってくれ」「電蓄(電気蓄音機)を組み立ててほしい」という近所の人の依頼がひっきりなしにあったという。街で評判のラジオ青年だったわけだ。

図1:大学時代の岡野氏(左から3人目)
当時所属していた研究室にて、指導教官や同級生と撮影した。

 そんな同氏である。「大学を卒業したら、東京芝浦電気(当時、現在の東芝)か、国際電気(当時、現在の日立国際電気)に入って、無線技術に思い切り取り組むんだ」と信じて疑わなかった。しかし、である。大学4年生になったある日、研究室の指導教官から呼び出しを受ける(図1)。そこで、「日本は電話事業の構築が急務である。東洋通信機に入って、この分野で力を発揮してみないか」と強く働きかけられたのだ。

 「東洋通信機?」。あまり詳しいことは知らない会社だった。「でも、社名に通信機が付く。無線技術に関する仕事ができるかもしれないな」。そう気を取り直した同氏だったが、次の瞬間、指導教官から思わぬ言葉が飛んできた。「東洋通信機に入って、水晶デバイスを極めてほしい」。

 もう何がなんだかわからなかった。無線技術をやりたかったのに、いきなり水晶デバイスをやれ。大学で、水晶デバイス研究の大家である東京大学の高木昇教授の講義を受けたことがあったが、水晶のことなど、ほとんど何も知らない。しかし、指導教官のたっての願いだ。無下に断るわけにもいかない。不承不承ながら、指導教官の働きかけを受け入れた。

 桜満開の昭和29年(1954年)の4月。同氏は重たい足を引きずりながら、東洋通信機の水晶部がある川崎へと通い始めた。