まったく不本意だった。

 中沢祐三氏は、東北大学において、当時最先端技術だったマイクロ波通信を学んだ。「社会に出たら、大学で学んだマイクロ波通信技術の知識を生かし、戦後日本の復興に一役買いたい」。そう強く思った中沢氏は、社名に通信機が付く「東洋通信機」を就職先に選んだ。

 意気揚々。東洋通信機に入社したのは1953年(昭和28年)である。もちろん、東洋通信機には無線通信機部門がある。てっきり、その部門に配属され、実力をいかんなく発揮できると信じて疑わなかった。期待で胸は膨らむばかり。ところが、である。配属先として言い渡されたのは、まったく思いもよらなかった水晶部門だったのである。同氏は、愕然とした。「なんで水晶。どうして無線通信機部門ではないんだ」。

 当時の同氏の水晶に関する知識といえば、「ハンコや装飾品に使われる材料」程度しかなかった。「そんな材料に関する部門に、どうして俺が・・・」。

火事で何もすることなし

 さらに入社後、中沢氏に追い打ちをかける事件が発生した。東洋通信機の水晶部門が入っていた建屋が火事となり、仕事場を失ってしまったのだ。水晶部門に入って、同氏が最初に手掛けた仕事は、水晶デバイスの検査だった。しかし、検査装置も火事ですべて燃えた。仕事をしようにも、水晶デバイスもなければ、検査装置もない。これでは、仕事を進められない。「さて、どうしようか・・・」。途方に暮れるばかりだった。

 そんなとき同氏は、水晶部門で働き始めてから、心に引っかかっていたことを思い出した。それは「この職場には、水晶デバイスに関する理論を熟知している人が少ない」ということだった。もちろん、設計や製造、検査などに関するノウハウを持った技術者はたくさんいた。つまり、当時の東洋通信機の水晶部門は「高レベルの職人集団」だったわけだ。その理由は、当時親会社だった日本電気(NEC)との関係にあった。水晶デバイスの開発は日本電気が、その設計と製造は東洋通信機が受け持つという構図が出来上がっていた。そのため、東洋通信機には、水晶デバイス理論を熟知する人が少なかったわけだ。

 火事で職場を失ったため、担当していた仕事は当分できそうにない。「それなら、水晶デバイスの理論をゼロから勉強しよう」。一念発起した同氏は、水晶デバイスの文献を片っ端から読破した。特に、理論については、当時、水晶デバイスに関する唯一の技術書だった「圧電気と高周波 注1」を隅から隅まで読んで学んだ。火事が起きてから新社屋が完成するまでの約1年間。同氏は猛勉強によって、水晶デバイスの知識なら社内で右に出るものがいない存在に成長していた。

注1)「圧電気と高周波」の著者は、我が国における水晶振動子の草創者である古賀逸策である。同氏は、東京大学や東京工業大学で教授を務めた。