戦後、日本で飛躍的に発展した科学や技術は、当初は大部分が欧米から導入された。しかし1960~1970年代の蓄積を基に、1980年代には「日本型モデル」と言える方法論が構築された1)。そして、幾つかの分野では世界の先頭にキャッチアップし、中には世界をリードしている分野も少なくない*1

 日本の研究開発は、研究費という観点で見れば政府主導ではなく民間主導である。両者の差は開く一方で、具体的な数字を挙げれば、1965年には政府系が31%、民間系が69%だったのが、21年後の1986年にはそれぞれ20%、80%と大きく開いている2)

 しかし原子力分野に限ると、リスクが大きいことから研究開発は政府主導で進められてきた。1960~1970年代は失敗が多く、成功例は少ない*2。その割合が逆転したのは、過去の失敗の苦い経験や新たに養成された人材に基づいて開発が進められた1980年代に入ってからである*3

 本稿では、今後の技術開発に資することを期待して、主に1960~1970年代に実施された原子力開発プロジェクト〔半均質炉/動力試験炉熱出力2倍化/原子力船「むつ」/高速増殖炉原型炉「もんじゅ」(日経ものづくり関連記事)〕の失敗原因とそこから得られる教訓について解説する。

I.日本の代表的な原子力プロジェクト

 技術開発プロジェクトに必要とされるのは、創造性/頭脳労働性/新情報蓄積性/リスク管理である3)。特に原子力開発は、長期の開発期間と膨大な開発費を要するためとりわけリスクが高く、政府主導で実施しなければならない。ただし、政府主導であろうが民間主導であろうが、技術開発プロジェクトの成否の判定基準は、目的を完遂できたか否かにある。原子力関連の国家プロジェクトや民間主導の技術開発であれば、実用化/商業化を達成できたか否かにあろう4)

 日本で実施された主な原子力技術開発プロジェクトとしては、日本原子力研究所(JAERI、原研)が実施した半均質炉/各種原子炉/動力試験炉(JPDR)/熱出力2倍化(JPDR-?)/軽水炉安全性研究/核融合研究/高温ガス炉/陽子複合加速器施設(J-PARC)など、旧日本原子力船開発事業団(JNSDC、原船団)による原子力船「むつ」、旧動力炉・核燃料開発事業団(PNC、動燃)が手掛けた国産動力炉/ウラン濃縮や再処理などの核燃料サイクル、原子力工学試験センター(NUPEC、原工試)が行った3次元大型振動台などがある。これらのプロジェクトの中で成功したと言えるのは、各種原子炉/軽水炉安全性研究/核融合研究/高温ガス炉/三次元大型振動台/ウラン濃縮/陽子複合加速器施設などである。

 特に長い開発期間と莫大な開発費を要したのは、「国家プロジェクト」として進められた国産動力炉と核燃料サイクル技術の開発である*4。動燃が採用した後述の「参謀本部方式」によるウラン濃縮、再処理、新型転換炉原型炉「ふげん」、高速増殖炉原型炉「もんじゅ」の評価については、実用化/商業化という視点から見ると意見が分かれるだろう5~8)。だが、筆者はウラン濃縮を除き全て失敗だったと考えている。

 以下、半均質炉、JPDR-II、むつ、もんじゅ、の各プロジェクトと、組織としての動燃の失敗原因についてみてみよう。

*1 原子力開発の分野では、軽水炉安全性研究や核融合研究、陽子複合加速器による物質科学研究などで先行している。

*2 1960~1970年代の失敗例としては、日本原子力研究所で実施された臨界集合体や研究炉、試験炉、動力試験炉の建設/運転などがある。

*3 1980年代の成功例としては、日本原子力研究所で実施された軽水炉安全性研究/核融合研究/高温ガス炉/陽子複合加速器研究施設、原子力工学試験センター多度津工学試験所で実施された三次元大型振動台などがある。

*4 技術開発項目によって異なるが、期間は10~40年、費用は3兆円ほどと言われている。