「知り合えただけでいい」

 Chuangとの関係は,内海にとって大きな財産に育つ。彼が台湾の電卓業界のリーダー格にあったからだ。当時の台湾電卓業界には,Ray Chen(陳瑞聰)やBarry Lam(林百里),Stan Shih(施振栄)といった若手の有望な人材がいた。Chuangは,こうした世代を育てた業界の先輩である。

 彼らはそれぞれ後に,Compal(仁寶)社,Quanta(廣達)社,Acer(宏碁)社を立ち上げ,台湾のコンピュータ産業の世界進出を担っていくことになる。こうしたChuangの「電卓人脈」は,内海がコンピュータ製品などを手掛ける際に大いに役立っただけでなく,日本と台湾,中国をつなぐ内海 の仕事を長く支えることになる。

 台湾コンピュータ業界での内海の名声を物語るエピソードが一つある。1987年にTandy社およびRadioShack関連の仕事を退いた内海は,西 和彦に請われてアスキーに参加し,ある情報機器の開発プロジェクトを立ち上げる。Chuangの紹介で製造を担当する企業も,台湾Arima(華宇)グループと決まった。

 ところが,内海が体調を崩して入院したことをきっかけに,プロジェクトが頓挫する。Arima社との仕事はご破算になり,同社の先行投資は水泡に帰した。ところが,Arimaグループを率いるStephen Lee(李森田)は怒るどころか,こう言ったという。

 「あの有名な内海さんと知り合いになれただけで幸せだ」


(写真:中島 正之)

 その言葉に偽りなく,Leeはその後,Arima社の全額招待で,中国・上海を1カ月近く観光する機会を内海に用意したという注3)

注3) その後内海は,Arima社の活動をさまざまな面から支援する。A&Aジャパンで内海が厚い信頼を寄せていた,部下の大瀧良勝(現在はモーダスリ ンク ジャパン ディレクター,左写真)に,Arima社の日本関連事業を任せたのも,同社への強い思い入れがあったためだ。大瀧はその後,Arima社のLED事業など 手掛けた。