韓国がNokiaの工場のひな型に

 内海らはその後,馬山のTandy Mobira社の合弁工場で,携帯電話機の自動化量産ラインを苦しみながら立ち上げる。Tandy社の韓国の製造部門であるTandy Electronics Koreaのスタッフや,内海が連れてきた日本人技術者らが,量産ライン構築の原動力となった注4)

注4) 内海は,Tandy Electronics社の韓国工場を馬山に立ち上げる際に(1970年代中ごろ),日本から数十人の技術者を連れていき,現地の労働者の指導に当たらせ ていた。その中には,ゼネラルから引き抜いた技術者が多く含まれていたという。ゼネラルは,戦前に設立された八欧電機を源流にしており,ラジオやテレビ, スピーカーなどに高い技術力を誇っていた。

 内海が立ち上げた韓国の合弁工場はその後,RadioShack向けに携帯電話機を大量に出荷するようになる。全面的な自動化を成し遂げたこの工場の情 報は,フィンランド本国に衝撃とともに伝わった。Nokia社は製造部門の責任者を次々と,この工場に送り込み,やがて本国のNokia社の工場で,韓国 工場をまねた自動化ラインの導入が始まった。内海配下の日本人技術者たちが苦心して構築した製造ノウハウがその後,Nokia社の携帯電話機の大量生産に 大きく貢献することになったのである。

 この工場が,韓国の携帯電話機産業に与えた影響も大きい。Tandy Mobira社の韓国工場はその後,Nokia社が100%出資の子会社として買い取る。その過程で工場から飛び出した数人の若者たちが,韓国 Samsung Electronics Co.,Ltd.に加わり,そこで移動通信端末事業を立ち上げることになるからだ。

Tandy Mobira社の韓国工場の前で,従業員と撮影した写真。前列左から3人目が内海氏。前列右から3人目は,ノキア・ジャパン 現・取締役 最高顧問の橋田公雄氏である。
Tandy Mobira社の韓国工場の前で,従業員と撮影した写真。前列左から3人目が内海氏。前列右から3人目は,ノキア・ジャパン 現・取締役 最高顧問の橋田公雄氏である。
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 合弁会社のNokia社側の担当者であったNieminenは1988年に退社し,フィンランドにBenefon社という携帯電話機メーカーを立ち上げ る。Benefon社はNMT方式の携帯電話機や個性的なデザインの端末で,一世を風靡した。Benefon社の研究開発部門はその後,欧州EMS大手の Elcoteq社に吸収され,ここでもNokia社の携帯電話機の大量生産を担うことになる。

 Tandy Mobira社の成功は,日本のメーカーにも意外な形で影響を与える結果になった。日本の部品技術が,Nokia社と内海のつながりによって,世界に羽ばたいていくきっかけをつかむことになるからだ。