社長ご自身は、会社が設立される以前から医療分野との関わりがあったのですか。
大学を卒業して商社に入り、その後、幾つかの家業の中でも時計店やホテルといったサービス業に関わっていました。私の専門は経済学なので、サンメディカル技術研究所が設立されて初めて、医学や工学を勉強しました。
でも、例えば米国では医師でありながら弁護士という人はたくさんいますよね。理系、文系と言っているのは日本だけで、そんな枠は関係ないんだと思って取り組んできました。
もっとも、会社が設立された当時は理系、文系どころか、医学部と工学部の接点すらほとんどありませんでした。ですから、今でいう「医工連携」のはしりのようなことをやっていたわけです。
20年間を振り返って、なぜ、補助人工心臓の販売にこぎ着けることができたと考えていますか。
絶対できる、やるんだ、という意志が揺らがなかったことが大きかったと思います。暗礁に乗り上げた時期に神風が吹くという運にも、何度か恵まれました。これも、諦めなかったからこそだと考えています。それだけ取り組む価値があるプロジェクトだったとも言えます。
もちろん、医師(山崎健二氏)が身近にいたため、医療ニーズをきちんと踏まえたものを作れたこと。モノづくり技術を持つグループ会社(ミスズ工業)が存在したこと。そして、プロジェクトを支える資金があったことなども、背景にあるでしょう。