Ford社 Infotronics Research & Advanced Engineering Team,Group and Technical Leader のK. Venkatesh Prasad氏(写真:Ford社)

 1996年,春。米国ミシガン州では厳しく長い冬がようやく終わりを告げたものの,まだ雪があちこちに残っていた。そんな光景を,1歳になる自分の子供の面倒を見ながら,デトロイト周辺のホテルの一室から眺めている男がいた。シリコンバレーにある米Ricoh Americas Corp.に籍を置く研究者,K. Venkatesh Prasad(現・米Ford Motor Co.,Infotronics Research & Advanced Engineering Team,Group and Technical Leader)である。

 Prasadの妻は,米University of Michiganの教授としての新しい仕事が間もなく決まりそうだった。そもそもPrasad一家がデトロイトに来たのは,その準備を進めるためである。

 一方,自分の新たな就職先は,まだ決まっていない。履歴書を妻の勤め先となる大学に送ってみたものの,一体どうなることやら…。Prasadは無邪気に笑う我が子の顔を見ながら,ため息をついた。

 そんな時,ホテルの電話が突然鳴った。最初は相手の名前をよく聞き取れなかったが,声の主はFord社のResearch,Vice President(当時)のBill Powersだった。

「あなたは自動車のことをどこまで知っていますか?」

 Powersは唐突に切り出した。いきなり,なんていう質問だ。何を聞きたいのか,意図が見えない。Ricoh社に勤める前は,米航空宇宙局(NASA)の研究員だったPrasadにもプライドがある。ちょっとイラつきながら,ぶっきらぼうにこう答えた。

「あんまり」

 すると,意外な言葉が返ってきた。

「正解! それが正しい回答だと,どうして分かったのですか?」

「えっ?」

 Ford社は,自動車業界を大きく変えてくれるであろう技術者を探していた。そのために,この業界にまだ染まっていない人材を求めていたのだ。

 こんな形で,Ford社は「SYNC」と呼ぶテレマティクス・システムの開発を担うキーパーソンを引き入れ,プロジェクトをスタートさせることになる。

Ford車の70%に搭載

 SYNCとは,音声認識やハンドル上のボタンなどを操作することで,携帯電話機や携帯型音楽プレーヤーを操作できるシステムである。米Microsoft Corp.の自動車向けプラットフォーム「Microsoft Auto」をベースに開発され,米Nuance Communications, Inc.の音声認識技術を採用している。

 このSYNCはFord車専用の車載システムで,2007年秋に米国市場に投入された。今ではSYNCを標準搭載する車種も登場しているが,オプション設定の場合で価格は395米ドル。2010年9月時点で累計250万台以上のFord車に搭載されるなど,大ヒットしている。2010年で見ると,Ford社が販売した新車の約70%がSYNCを付けている計算だ。SYNC購入者の32%は,SYNCの機能がFord車を購入する大きな動機になったという。

 SYNCが狙っているのは,米国市場だけではない。Ford社は2011年中にも,SYNC搭載車を欧州やアジア太平洋地域にまで拡販する計画である。SYNCが対応する言語は,間もなく合計で21言語に達するほどだ。

 実はSYNCが製品化される以前,他の自動車メーカーも似たようなテレマティクス・システムを手掛けていた。その多くは,携帯電話事業者の専用通信端末を組み込むことでシステムを構成している。こうした製品に比べて,「ユーザーの携帯端末を用いて比較的軽いプラットフォームを構築したFord社のアプローチはユニークだ」(米Gartner, Inc.,Research Vice PresidentのThilo Koslowski氏)。SYNCの開発にゴーサインが出た2002~2003年は,いわゆる“ネットバブル”がはじけたころ。Ford社にとっては,大きな決断だった。

Ford本社と,1950年代に発売し たスポーツカー「Thunderbird」 (写真:Ford社)
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 その開発に当たり,通信端末としてユーザーの携帯端末を利用するという発想は,Ford社の重要な戦略となった。システムのコスト低減はもちろん,進化の早い通信技術にすぐに対応できるためである。

 もし専用の通信端末をシステムに組み込めば,やがてはデータ通信速度などの点で時代遅れのシステムになってしまう。これに対し,市場に続々登場する最新の携帯端末に常に対応できる柔軟性をシステムが備えていれば,携帯端末の新旧にかかわらず自動車は車外の世界といつでもつながることが可能になる。