4000台販売も後が続かず

 安原氏は開発過程を,Webサイトに公開した。それがカメラ愛好家に伝搬した。加えてマスコミが,個人企業がカメラを企画・設計し,販売するという物珍しさに飛び付いた。取材対応は年間200件近くに達した。こうして知れ渡った「一式」の販売台数は,約4000台。価格は5万5千円。直販で値引きなし。販売高は約2億円だった。

 これを元手に安原氏は,レンジ・ファインダー銀塩カメラ「秋月」を開発した。前機種は,Phenix社の有り物を改変したもの。対して秋月は,金型をすべて起こした。中身はもっと違った。外観デザインは1970年代風なのに,シャッターや露光はマイコン制御。これらを一人で設計した彼は,最高に楽しい時間を過ごした。

 だが,光学や機構の設計・製造を任せたPhenix社の動きが鈍かった。カメラ事業に見切りを付けていたのかもしれない。安原氏は再三Phenix社をプッシュしたが,結局,量産開始は2003年末にずれ込んだ。時代は銀塩カメラを求めていなかった。

 秋月の販売台数は1000台未満。総員二人となっていた安原製作所の資金繰りは火の車になった。借金もあった。「政府保証付き融資だけだったので,怖い目には遭わなかった」ものの,返すあてはない。残る道は,会社を畳むことだった。「Phenix社などの取引先に損害を負わせた。自分が望むモノを作るという幸せな時間も失った。つらかった」。

紆余曲折を経て今の会社に

 家族を養う義務こそなかったものの,働かなくては生活できない。ある企業に就職した。そして2007年,部品の設計を請け負う「安原製作所」を立ち上げた。だが,これもうまくいかなかった。受注難に直面した。

 安原氏はハローワークに通った。大した期待をせずに「映画作りには渋谷がいいかな,などという,とんでもない考え」を抱いて検索したとき,「勤務地:渋谷,年齢:問わず,ハードウエアとソフトウエアに明るい人」という求人を見つけた。

 早速,面接に行って驚いた。オーナー社長は75歳。技術者の最高齢は80歳。年配者ばかりの会社で,入社すれば自分が最若年になる。オーナー社長と大学が同窓という縁もあった。採用は翌日に決まった。「偶然に近い。運に恵まれた」。

 入社した会社は,船舶向けの座礁防止装置や測位装置の設計専門会社である。安原氏が慣れ親しんだアセンブラは全く役に立たないが,プログラムは外注先が書いてくれる。同氏の仕事は,ハードウエアとソフトウエアを見通して装置の仕様書を書くこと。幸い,船舶向け装置は信頼性が極めて重視されるので,民生機器ほど技術が移り変わっていない。そもそも仕様固めなら,カメラで人生を懸けて鍛錬してきた。安原氏は今,まるで後継者のように,オーナー社長にかわいがってもらっているという。

 安原氏は,映画でも結果を出せた。商業映画として上映後,2008年にはDVDになって一般発売された。安原氏は言う。「今は民生機器を使って十分すぎるほどの品質の映画が作れる。お金なんて問題にするほど掛からない。仕事も安定したし,こういう生活を続けたいね」。