40代,男性銀塩カメラ

【事例7】
行動力こそが身を助ける

 銀塩カメラの末期,愛好家の記憶に残るカメラがあった。レンジ・ファインダー銀塩カメラ「一式」(1998年発売)である。ブランドが問われる世界で名も無き個人企業「安原製作所」が生み出したそのカメラは,クラシック・カメラ・ブームを沸き起こした。

レンジ・ファインダー=ファインダー内に映る二つの像をそろえることで,ピントを合わせる機構。一眼レフのようにミラー・ボックスが要らないので,レンズや本体を小型化しやすい。一方で,撮れる範囲を正しくユーザーに示せないといった欠点から,一眼レフに主流の座を奪われた。

 安原製作所を起こした安原伸氏は,自分の信条に沿ったカメラを作ることにこだわり,大企業を辞めた。抜群の行動力と図らずも獲得したマネジメント能力,そして時代が彼に大きな成果をもたらした。しかし2004年,安原製作所は倒産。その後の人生を切り開いたのも,彼の高い行動力だった1)

参考文献
1)安原,『安原製作所回顧録』,えい(「木」へんに「世」)出版社,2008年1月.

カメラ開発じゃなきゃ辞める

安原製作所の2号機「秋月」と安原伸氏
安原製作所の2号機「秋月」と安原伸氏
秋月を最後に,安原氏は自らの会社を閉じた。

 安原氏は1964年に生まれ,神戸大学理学部物理学科を卒業。自主制作映画の監督だった安原氏は,カメラに関心があった。京セラに目を付けた安原氏は,面接で「カメラ開発以外に配属されれば辞める」と宣言。思惑通り,その業務に就き,高級銀塩カメラのマイコンの開発などを手掛けた。一方で,趣味として映画制作を継続した。生活は充実していたが,入社して10年で転機が訪れた。

 安原氏は銀塩一眼レフ機「CONTAXAX」の設計に参加した。AXは,フィルムを光軸方向に動かすという奇天烈なオートフォーカス(AF)機構を備える。これでも組み合わせる交換レンズが全群繰り出しなら,画質は低下しない。問題は,そんなレンズは一部しかなかったことだ。「こんなAFがZeissの世界で許されるわけがない」と思った注1)。安原氏は,一設計者である。企画が決まった以上,設計を進めるしかない。強い罪悪感を覚えつつ仕事を全うした。

全群繰り出し=全レンズが一体になって光軸方向に前後すること。

注1)Zeissとは,高性能レンズを19世紀から市場に供給し続けるドイツCarlZeiss社のこと。同社は京セラに,カメラ本体の設計・製造権および,CONTAXブランドの使用権を与えていた。

 AXは,どうにか発売されたものの,事業的には大きく失敗。安原氏は1997年2月,京セラを去る。「石にしがみついてでも勤め続けろ」と身内に言われたものの,独り身だったので「いざとなったら塾の先生でもやればいいさ」と意に介さなかった。

意図せず会社を始める 

 安原氏は当時,「カメラは自分の思い入れが強すぎてダメだ。家電か何か別なものを手掛けよう」と考えていた。だが,それはすぐに変わることになる。退社の翌日,安原氏は中国を訪問した。現在の中国PhenixOptics(鳳凰光学)社に,「一緒にカメラを作ろう」と持ち掛けるためだ。京セラ在籍時に中国を訪問し,たまたまPhenix社のカメラを購入したり,その製造現場を見学したりしていた。

 Phenix社に対して,「レトロなレンジ・ファインダー機が日本で受けるはず。そうした機種は今はないからチャンスだ」と安原氏は話した。勝算はなかった。破れかぶれだった。

 ところが,意外にもPhenix社は乗ってきた。引くに引けなくなってしまった。提案が採用された背景には,銀塩カメラの機能進化が停滞していたこと,加えて中国が改革・開放路線にシフトした後,Phenix社が日本製品にシェアを奪われていたことなどがあった。時代は安原氏に味方した。

 資金や部品の調達面では,カメラを愛する個人や技術者が彼を助けた注2)。なぜ,安原氏がそうした人々を巻き込めたのか。「映画を作っていたからじゃないですか」と同氏は言う。映画作りは専門家を指名し,チームを組むプロジェクト・マネジメントである。それを繰り返していたことが,期せずして仕事に役立ったわけだ。

注2)安原氏が東京都世田谷区のあっせん融資制度に応募したところ,カメラ好きの審査員が事業の価値を理解してくれた。中核部品であるシャッターの調達では,そのガリバー企業,現在の日本電産コパルが協力してくれた。