2004年に開催されたアテネ五輪、2011年の世界陸上選手権大邱大会、両大会のハンマー投げ競技で金メダルを獲得した室伏広治氏。ギリシア彫刻のような体躯を回転させてハンマーを投げ放つ美しいフォームは、もはや芸術の域だ。

 彼は世界的なトップアスリートであると同時に、もう一つの顔を持つ。アスリートの動きを解析し、技能向上やけがの防止に生かす「スポーツ・バイオメカニクス(以下、バイオメカニクス)」の研究者なのである。その彼が、自ら被験者となって取り組む研究がある。「聴覚フィードバック法」と呼ばれるトレーニング手法だ。慶応義塾大学の太田憲氏(大学院政策・メディア研究科特任准教授)らの研究グループと共同で実験を進めている。

 聴覚フィードバック法とは、その名の通り、選手の身体が動く様子を外部からの音でリアルタイムに選手に知らせる手法である。室伏氏らが取り組むハンマー投げの研究では、ハンマーを投げる際に身体が回転する際の加速の様子を音に変換する。ハンマーの回転、つまり身体の回転の加速に合わせて、近くに置いてあるスピーカーが「ブォーン」とうなりを上げる。選手は、この音をヒントにうまく加速できているかなどを、投てき動作中にチェックできるというわけだ。

スポーツで始まるエレクトロニクス革命

 このシステムで活躍するのは、ハンマーのワイヤ部分に取り付けた小型の動きセンサである。このセンサは、ワイヤ方向の加速度や回転方向の角速度を計測できる。センサの計測値は近くのコントローラ装置に無線伝送され、計測値に応じた音に変換されてスピーカーから流れる仕組みだ。

図1 小型センサでアスリートの動きを計測
室伏氏らが計測に用いているものと同じタイプの小型センサと、聴覚フィードバック用のコントローラ装置。いずれもロジカルプロダクトが開発した。
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 今、スポーツの世界で「エレクトロニクス革命」とも呼べそうな変化が起きようとしている。室伏氏らの試みは、その一例にすぎない。スマートフォンに代表される携帯端末の急速な普及が、これまでベールに包まれてきたアスリートの身体の動きを定量化する取り組みに一役買い始めている。

 従来、アスリートの動きを捉える実験では、大掛かりで高価な装置を用いる例が多かった。光を反射するマーカーを身体の各部に取り付けて動きを撮像するモーション・キャプチャー装置や、内蔵するひずみゲージや圧電センサを用いて運動時に床に加わる力を測るフォースプレートが代表例だ。

 ここに加速度や角速度、位置などを測定できる無線通信機能付きの小型の動きセンサが本格的に加わろうとしている。小型センサの利点は、体に装着するだけで動きをリアルタイムに捉えられることだ。これにより、計測の場を特別な「実験室」から、実際のトレーニングや競技を行なう「フィールド」に変えるポテンシャルを秘めている。「センサの小型化や無線通信技術の進化、スマートフォンやタブレット端末の普及によって、新しいトレーニング手法の現実味が増した。このインパクトは大きい」と、慶応義塾大学の太田氏は説明する。

 同様の取り組みは、一般のスポーツ愛好家の間でもトップアスリートと同時進行で浸透中だ。この1年ほどで米Nike社やドイツadidas社などのスポーツ用品メーカー大手がスポーツ用品の“デジタル化”に本腰を入れている。トップアスリートと、趣味のスポーツの両輪で「デジタル・スポーツ」の新市場が生まれようとしているのだ。