空冷方式はダメかもしれない─。変速機のチームは開発が進むにつれ,自信を深めるどころか不安を感じ始める。変速機チームを統率していた原智之は,GT-Rの開発総責任者である水野和敏の言葉を思い出していた。
「横Gは,軽く1Gを超えるよ。もしかすると1.5Gくらいかもね」
開発プロジェクトの発足前,水野は原にそう言っている。横Gは,旋回時に車両に発生する横方向の加速度。1Gなら重力加速度と同じ,つまり自重と同じ大きさを持つ横方向の力が車両に発生しているということだ。
横Gの値は,旋回時の速度に大きく依存する。言い換えれば,旋回性能が優れているクルマほど速度をそれほど落とさずにコーナーを抜けられるので,横Gも大きくなる。
乗用車で1Gはかなり大きな数値だ。つまり,自分たちがこれから造ろうとしているのは,それだけずぬけた性能を持つクルマだということを,水野は原に伝えたかったわけである。ただし原は,水野の意図は察したものの,1Gを超えることがどれほどの威力を持つのか,感覚的に理解できなかった。そうした値が出たところを,ほとんど見たことがなかったからだ。
クルマが血を吐いた
そして,その威力は原の想像をはるかに超えていた。横Gによってギアボックスに設置された冷却用オイルの配管が耐え切れず,しばしば故障したのだ。エンジンを車両前方,変速機を車両後方に置く「トランスアクスル方式」を採用したことで,オイル配管が非常に巨大かつ複雑になっており,横Gの影響を受けやすかったのだ。
サーキットでの走行中にオイル配管が故障してしまうと,変速機チームは惨めな思いをする。ほかの車両の邪魔にならないよう,コース上に飛び散ったオイルをふき取らねばならないからだ。しかもオイルの色は赤かったので,まるでクルマが血を吐いているようにも見える。
岸郷史もそうした悔しさをかみ締めた一人である。しかし,掃除も嫌だったが,何よりも悔しいと感じるのは,変速機のせいでテスト走行が中断することだった。
頻発する配管の故障に歯がゆい思いをしていた岸を見て,原はある秘策を提案する。オイルの冷却方式を空冷ではなく水冷に変更するというものだ。
空冷方式では,変速機のある車両後方から空気の流れがある車両前方まで,熱せられたオイルを運ぶ必要がある。オイル配管が巨大かつ複雑になるのは,そのためだ。