国内販売目標台数が200台のところ,いきなり2000台超の予約。海外でも大量の受注を獲得─。復活したスポーツカー「GT-R」が,国内外で好調な滑り出しを見せている。だが,その開発プロジェクトは,当初から波乱含みだった。
国内販売目標台数が200台のところ,いきなり2000台超の予約。海外でも大量の受注を獲得─。復活したスポーツカー「GT-R」が,国内外で好調な滑り出しを見せている。だが,その開発プロジェクトは,当初から波乱含みだった。
仙台での試作車の“試乗会”を通じて決意を新たにしていた栃木工場のメンバーは,宮川だけではない。清田勝と宮田光雄も,自分たちがこれから造るクルマがいかに規格外であるかということをあらためて実感していた。清田と宮田はボディの担当である。清田が製造(溶接)工程を,宮田が製造品質を管理する。
全国的な猛暑に見舞われていた2006年夏の日本。仙台市郊外にある「仙台ハイランドレースウェイ」では,連日のように「GT-R」の試作車の試験走行が続いていた。その様子を,開発チームの主要メンバーが見守っている。サーキットそのものを「開発拠点」にしてしまうのがGT-Rの開発スタイルである。開発に携わる多…
ドライバーへの負担は当然,重くなる。だが,松本はすぐに走行データの重要性を理解した。走行データがあることで,課題の抽出がとにかく速く進むのだ。その一例として「再現性のない現象も記録に残せること」を松本は挙げる。 例えば,こんなことがあった。走行テスト中,変速すべきところで変速しなかったのだ。すぐさま…
世界で最も過酷なサーキットといわれるドイツの「ニュルブルクリンク」の北コース。そのコースを,「GT-R」の試作車が轟音と共に駆け抜ける。運転席に座るのは,レースドライバーの鈴木利男。開発総責任者である水野和敏が,全幅の信頼を寄せて起用したGT-Rの開発ドライバーだ。
ボディの開発チームに合流した鈴木が,最初のミーティングで伝えられた方針は非常にシンプルだった。「低速域はもちろん,高速域においても真っすぐに走るクルマ」である。
空冷方式はダメかもしれない─。変速機のチームは開発が進むにつれ,自信を深めるどころか不安を感じ始める。変速機チームを統率していた原智之は,GT-Rの開発総責任者である水野和敏の言葉を思い出していた。
そのころ,先行開発チームに岸郷史が加わった。2003年夏のことである。それまで国内の商用車メーカーで自動MTを開発していた岸が,日産自動車に転職を決意したきっかけは,非常に明快だ。「いつからか,変速機を開発するだけでは満足できなくなっていた。その変速機を搭載したクルマを運転したい,所有したいと思うよ…
最高のクルマを造るために,GT-Rの商品企画と開発を統括する水野和敏は,まず“人づくり”から着手する。この狙いは見事に当たり,メンバーは自身の成長に手応えを感じ始めていた。
目指すべきは,ユニット全体が高いレベルで調和しているクルマ。それを実現するための人づくりが始まろうとしていた。この人づくりを通じて水野はメンバーに何を期待していたのか。これを間接的に表現したのが「開発の舞台はフランス料理店の厨房。そして自分は総料理長」という水野の言葉だ。
「この中で400馬力以上のクルマに乗ったことがあるという人,手を挙げて」
さらに,居住性と同じくらい重視したのが,車体質量(重力)の活用である。通説では,初動時の加速性能を損なう質量は,スポーツカーの“敵”。ギリギリまで寸法を削り,軽金属や炭素繊維といった軽い素材でとことん軽量化するのがスポーツカー開発の常道といえる。 水野は,この通説も疑った。質
開発総責任者を務めるのは,水野和敏にとって初めてというわけではない。だが,それまでとは違う点もある。商品企画の総責任者を兼務することだ。
水野が意識していたのは,ゴーンの「究極のロードカー」という表現に込められた,次期GT-Rに対する要求水準の高さである。閉鎖的なスーパーカー市場において,全く新しい価値を提示できなければ,日産自動車が造るクルマなど見向きもされないだろう。
国内販売目標台数が200台のところ,いきなり2000台超の予約。海外でも大量の受注を獲得─。復活したスポーツカー「GT-R」が,国内外で好調な滑り出しを見せている。だが,その開発プロジェクトは,当初から波乱含みだった。