ロサンゼルス・オリンピックでのカラー画像の電送実験を無事乗り切ったキヤノン開発陣。
その勢いを駆って約2年という短期間で業務用の電子スチルカメラを製品化し,「世界初」の称号を手中に収める。だが,市場の反応は芳しくない。プロ向けとしては画質がまだまだ足りないのだ。
それならばと民生用に舵を切り替え,電子スチルカメラの小型化や低コスト化を追求するも苦戦が続く。
そんな開発陣に,ある決断が伝えられた。

タイトル
溝口芳之現在はイメージコミュニケーション事業本 部DCP開発センター部長。
写真:栗原克己

 1992年正月。日本経済は,バブルが崩壊し景気減速が鮮明になる中,新しい1年を迎えた。企業の仕事始めには,かつてのような華やかさはない。晴れ着をまとった女性社員たちの姿は随分まばらになった。東京・下丸子にあるキヤノン本社とて,例外ではない。仕事始めの朝の出社風景は,正門脇に立てられた門松を除いて普段の朝と全く変わらない。いつものように,足早に自分のオフィスへと向かう社員たち。その流れに交じって,溝口芳之の姿があった。

 彼が,本社に出社するのは半年ぶり。それまでは福島工場で,民生用の電子スチルカメラ「Q-PIC」の立ち上げにかかわっていた。当初の予定では1992年の初日は,福島工場で迎えるはずだった。それが変更になったのは,大粒の雪が舞う1991年暮れのこと。福島工場のホールに急遽集められた溝口ら開発の面々は,会社からこう告げられたのだ。

 「電子スチルカメラ事業は1989年1月のQ-PIC発売以来丸3年がたとうとしているが,いまだに計画の数字をクリアするのに四苦八苦している。浮上の特効薬もなく先の展望も開けない。残念だが,電子スチルカメラ事業はいったん事業部門から撤退させ,本社の研究開発部門に戻す」

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真栄田雅也現在はイメージコミュニケーション事業本 部DC事業部副事業部長DCP開発センター所長。
写真:栗原克己

 会社が下した「撤退」という2文字の決断。関係者にとっては晴天の霹靂だった。プロジェクト・マネジャーとして電子スチルカメラの陣頭指揮を執っていた真栄田雅也はこう振り返る。

  「このままではまずい,という空気は感じていました。事業はずっと低空飛行を続けていましたから。しかし,量産を立ち上げているさなかの撤退は,あまりに突然でした」

 それは,開発畑を順調に歩んできた入社7年目の溝口にとって,初めて味わう「挫折」だった。Q-PICをやめ,今年は一体どんな年になるのだろう。溝口は不安を抱えながら,半年ぶりの本社の中に消えていった。

新しい課題

 溝口の新しい職場は,電子スチルカメラ事業部と中央研究所との混成部隊となるイメージング研究所である。そこで,リーダーの真栄田らと共に,新しい課題に取り組むことになっていた。それはカメラのフルデジタル化。当時の電子スチルカメラのシステムは,レンズを通して入ってきた光をCCDでアナログの電気信号に変換し,フロッピーディスクにアナログ信号のまま記録していた。フルデジタル化とは,画像処理も記録も含めたシステム全般をデジタル化しようとするもの。いわゆる今のデジタルカメラのシステムである。

 開発陣のやるべきことははっきりしていた。問題は,それをどう具現化するか。フルデジタル化というテーマにふさわしい製品をコンセプトから考えなければならない。もちろん,Q-PICの二の舞にならぬように。

 開発陣は来る日も来る日も,コンセプトを出し合っては議論を重ねる。電子手帳とカメラを合わせたらどうか。カメラにGPSを付けたらどうだろう,などなど。夢を膨らませ想像をかき立て,未来の製品の姿を語り合う。気が付けば,再び新しい年を迎えていた。