外されたかな

 キヤノンが電子スチルカメラの撮像素子や記録方式に関する基礎研究に着手したのは,1970年代後半。中央研究所の磁気記録の研究グループを中心にタスクフォースを組織し,基礎検討を進めてきた。ちょうど記録方式をどうするか決めかねているところに,ソニーのマビカのニュースが飛び込んできたのである。真栄田は言う。

 「カメラといえば,銀塩フィルムを使うのが当たり前の時代。その状況は当分続くと思い込んでいたところに,製品然としたソニーさんのマビカが突然登場したんです。驚くと同時に,これでカメラは銀塩から磁気記録方式に急速にシフトしていく,という思いを強くさせられたのです」

タイトル
新堀謙一 現在はイメージコミュニケーション事業本部DCP開発センターDCP11開発部部長。
写真:栗原克己

 それまで細々と電子スチルカメラの研究をしていたキヤノンの尻に火が付く。中央研究所主体だった電子スチルカメラのタスクフォースにまず,カメラ開発センター長の山中寅清,同センター電気設計部長の瀧島芳之が加わる。基礎研究レベルから開発レベルに引き上げ,早期の製品化を目指そうというのだ。そして,山中の命を受けた瀧島が同センターのビデオ部隊やカメラ部隊を中心に20数人の開発メンバーを新たに選抜してきた。ビデオ部隊に所属していた新堀謙一も,その一人だった。

  「開発メンバーとして声が掛かった時には正直,外されたかな,と思いました。1979年にカメラ開発センターの中にビデオ部隊を編成し,ちょうど軌道に乗ってきた時期でしたから。しかし,それが誤解であることは,その後すぐに分かりました」

 一同に会した新堀ら20数人の開発メンバーを前に,タスクフォースの上層部が檄を飛ばす。

  「君たちも承知の通り,ソニーが電子スチルカメラを発表してきた。あの電機メーカーのソニーが,だ。我々カメラメーカーが,彼らに絶対に負けるわけにはいかない。製品は必ず先に出す。画質でも必ず勝つ。だから,君たちにはこれから死に物狂いで頑張ってもらいたい。カメラメーカーとして,キヤノンとしてのプライドを懸けて」

僕にははっきり分かる 

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村本知孝 現在はイメージコミュニケーション事業本部DCP開発センターDCP14開発部部長。
写真:栗原克己

 20数人でスタートしたタスクフォースはその後,折を見て増員していく。最初からメンバーだった村本知孝は当時をこう振り返る。

  「あのころは引っ越しの連続でした。人が増えて部屋が手狭になってくると,すぐに机ごと別の部屋に移るんです。そんなことを数回繰り返しましたね」

 本格スタートから2年後の1983年には,開発メンバーは当初の20数人から50~60人にまで増えていた。そこには,真栄田の名も。そしてタスクフォース自体は発展的に解消し,カメラ開発センター電子映像技術開発部として組織化された。こうしてソニー追撃体制が整う。

 彼らの目標は,先を行くソニーのマビカと同じ,2インチ型フロッピーディスクを利用した磁気記録方式を実現すること。それを民生用ではなく業務用の電子スチルカメラとして製品化するのだ。当然,ソニーよりもどこよりも早く。

 「当時,民生用の銀塩式一眼レフカメラは,ボディ価格で5万円を切っていました。このようなマーケットでは,デバイス価格の高い電子スチルカメラに勝機は全くありません。そこで業務用を狙ったわけですが,幾つか課題がありまして…」