CMOSがLSIの基盤技術であることを今は誰も疑わない。現在量産されているLSIの大半はCMOS技術を用いている。CMOSは今後も当面主流であり続ける可能性が高い。「ポストCMOSデバイス」の研究開発は続いているが,CMOSを置き換えるのは,早くても2025年以降との見方が多い。
CMOSが本格的に普及し始めたのは,一般的には1985年ごろとされる。この年に登場した米Intel Corp.のマイクロプロセサ「80386」や東芝の1MビットDRAMは,CMOSプロセスを採用して大成功を収めた。ちょうど,半導体技術の牽引役が汎用大型コンピュータからパソコンに移りつつあったころである。ダウンサイジングの波に乗ったCMOS技術は急速に普及し,半導体のあらゆる応用分野に広がった。
革新の原点 CMOSを普及させたチップ
目次
-
最終回:頑固で無謀な技術者たちが半導体の歴史を変えた(下)
学会での成功の次は製品化である。ADAM7は「HM6147」と名付けて市場に投入することが決まった。製品版の開発期間は1978年の第1四半期から第4四半期まで。1978年末には量産が始まった。
-
第7回:頑固で無謀な技術者たちが半導体の歴史を変えた(上)
1975年秋。CMOSの高速化技術の開発に着手した日立製作所中央研究所の増原利明と酒井芳男は,思いつく限りのアイデアを出し合った。その数は最終的に数十件にも上った。一つ一つに対し,実現の可能性や課題などを検討する。彼らが選び取った宝石の原石は,1976年初旬に酒井が提案した「2重ウエルCMOS」と呼…
-
第6回:旧知の友との会話が一大プロジェクトに発展(下)
1977年3月に遡る。この月,安井はCMOS製SRAMに関する中央研究所との共同開発プロジェクトを始動させた。その大きな理由が武蔵工場単体での開発に限界を感じていたことだった。HM4315の開発遅れに,上司の牧本はしばしば怒りを爆発させた。「なぜ根本的な対策ができないのか!」。武蔵工場の限られた人員…
-
第5回:旧知の友との会話が一大プロジェクトに発展(上)
1977年10月,明け方近くまで居酒屋で議論を交わし,フラフラになって帰宅した日立製作所の安井徳政は,妻の言葉に酔いが一気に醒めていくのを感じた。欧州に駐在している長瀬晃から至急連絡が欲しいとの国際電話が何度もあったという。当時,欧州からの国際電話はよほどの緊急事態でない限りかかってこなかった。
-
第4回:遊び心で始めた技術が高集積化の切り札に(下)
1976年。安井は製品化を決意する。安井の腹案は,大胆を通り越して無謀ともいえた。nMOS製SRAMとCMOS製SRAMの両方を同時に開発しようというのである。猫の手も借りたいほど,人手が足りないにもかかわらず。
-
第3回:遊び心で始めた技術が高集積化の切り札に(上)
1974年,前年のオイルショックの影響で日本経済は戦後初のマイナス成長を記録した。半導体業界も深刻な不振に陥り,技術者の多くは仕事がほとんどない状況だった。日立製作所も例外ではなく,武蔵工場では定時退社が日常化し,午後から帰休になる日もあったという。
-
第2回:速くて安いCMOSチップがユーザーの固定観念を打ち破る(下)
Intel社が2147を発表して1年足らず。1978年2月に開催した半導体回路技術の国際会議「ISSCC(IEEE International Solid-State Circuits Conference)」で日立は6147を発表した。その仕様は参加者の常識を超えていた。
-
第1回:速くて安いCMOSチップがユーザーの固定観念を打ち破る(上)
CMOSがLSIの基盤技術であることを今は誰も疑わない。現在量産されているLSIの大半はCMOS技術を用いている。CMOSは今後も当面主流であり続ける可能性が高い。「ポストCMOSデバイス」の研究開発は続いているが,CMOSを置き換えるのは,早くても2025年以降との見方が多い。