「三洋さん,シミュレーションの精度がこんなに悪くては,困りますよ」
1996年春。三洋電機 東京製作所の会議室に,新進気鋭のベンチャー企業として注目されていたザインエレクトロニクス 代表取締役社長の飯塚哲哉と,その右腕である佐古俊之が腕組みをして座っていた。向かいには,三洋電機 半導体事業本部の10人の技術者がズラリと並ぶ。一同を率いていたのは田端輝夫。三洋電機で多数のICの設計を手掛けるMOSLSI事業部第1技術部のトップだった。飯塚と田端は,大学の同じ学科の先輩・後輩でもあった。
三洋電機は当時市場が伸びつつあった,高速のパイプライン・バースト SRAMを製品群に加えることを狙っていた。このため,ICを受託開発していたザインに,共同開発を打診した。ザインが設計し,三洋電機の工場で生産するという分担である。
外圧の到来
当時ザインは,設立から数年を経て,大手メーカーからの受託開発業務が軌道に乗り始めていた。三洋電機からの依頼も,是が非でも成功させたい。そのために飯塚には,譲れない点があった。シミュレーションの精度である。シミュレーションの結果を基に設計を練り上げることが,限界まで性能を引き出す近道と考えていた。
三洋電機側が提出した回路シミュレータの精度は,飯塚が満足できるレベルではなかった。飯塚は,シミュレーションと実測の数値の乖離を,5%以内に抑えたいという。精度を引き上げるためには,三洋電機の生産ラインで作るトランジスタのモデルやパラメータの情報が必須と飯塚は主張した。ところがその場に,トランジスタのモデル化に詳しい人材は皆無で,飯塚の矢のような質問に,誰もきちんと答えられない。 たまらず飯塚は,こう切り出した。
「こんなに精度が低いままでは,いい仕事はできません。デバイス・モデリングの分かる人はいないんですか」
「困ったな。誰か,詳しい人間はいないのか」
田端が叫ぶと,部員が答えた。
「そういえばCADの名野さんがモデリングをやってたと思いますけど」
あー,あの名野さんか。CAD畑の長いあの人なら,何か知ってるかもな。
「よし,今すぐ呼んでこい」
随分オタクっぽい人だな
「名野さん,ちょっと手伝ってほしいことがあるんです。会議室まで来てもらえませんか
第1技術部の部員に呼ばれた名野が会議室に向かうと,皆が険しい顔をして座っていた
「名野さん,うちの会社のモデリングに対する取り組みについてちょっと説明してくれないか」
「は,はい」