「東北地方は地震が多いので、地震には慣れているつもりだったが、今回は次元が違った」。ティ・ディ・シー(本社宮城県・利府町)代表取締役の赤羽亮哉氏は、2011年3月11日に発生した東日本大震災について、こう振り返る。

 赤羽氏は地震発生時、自社の応接室で来客と打ち合わせをしていた。来客2人のうち1人は同氏の横を抜けて外に逃げだそうとしたが、あまりの揺れの大きさに、そのまま同氏にしがみついて動けなくなってしまったほど。社内の機械も10cm以上動いていた。

 電力の供給も止まり、とても仕事にならない。赤羽氏は、地震発生の30分後には全社員を帰宅させた。しかし、その時点で近隣の道路は既に大渋滞。同社のある社員は、普段は30分程度で帰宅できるのに、その日だけは4時間もかかったという。

塩釜港や多賀城市内の様子
2011年4月7日に撮影。上2枚が塩釜港周辺、下が多賀城市内の様子。自動車が走る道路はきれいに清掃されていたが、沿道には津波に流された物の残骸が積み上げられていた。この日の夜、大きな「余震」が再び東北地方を襲った。

 同社は、最も近い海岸線まで約4kmと比較的海沿いに位置している。より海岸に近い塩竃市や多賀城市には海水が押し寄せていたが、同社のある利府町は高台になっており、津波の被害はなかった。そのため、海側から逃げてきた多数の自動車により、同社周辺の道路も身動きが取れなくなるほど混雑したのだ。

覚悟は決めたが…

 翌12日から13日までは電力の供給が止まったままで、余震も続いていた。そして休み明けの14日、全社員60人のうち出社できたのは40人にとどまった。出社できなかった社員の半分は自宅の片付けに追われ、もう半分は通勤するためのガソリンがなかった。その後もガソリン不足の解消のメドが付かず、出社人数は15日に25人、16日に12人とどんどん減っていき、17~18日は自宅待機にせざるを得なかった。電力供給は再開していたが、人手が足りず工場の復旧作業は思うように進まない。

 このときに赤羽氏が心配したのは、震災の影響で仕事を他社に取られてしまうのではないかということだった。ラップ盤による鏡面加工を得意としているティ・ディ・シーでは、顧客からワークを受け取って、それを加工した上で納品するという取引形態が多い。この時点では物流がほとんど機能しておらず、顧客側も同社にワークを送れない状況だったので、生産できなくても直ちに顧客に迷惑がかかるわけではない。ガソリンが手に入るまでは仕方ないと覚悟を決めたが、一抹の不安があった。

 ガソリンに関する状況が変わったのは、3連休明けの3月22日だ。この日は50人が出社し、工場の復旧が見えてきた。そこで顧客に対し「生産再開」を宣言し、翌23日から機械の調整などを行いつつ、震災前から手を付けていた仕掛かり品の加工に着手。同月末にはほぼフル稼働まで復旧した。