前編より続く

 もう一人のポン友である韓国のJ. K. Leeは,内海の強力な右腕であり,また親友と言える男である。韓国の李王朝の末裔と言われるLeeもまた,同国の電子機器業界で幅広い人脈を誇る。内海がLeeと仕事を始めたのも1970年代後半である。内海が韓国・馬山にTandy社の工場「Tandy Electronics Korea」を初めて立ち上げたころだ。

水晶振動子が出会いのキッカケ

韓国・馬山のTandy Electronics Koreaの前で,従業員 と撮影。左から二人目が内海氏。

 内海は,韓国工場で最初に生産する商品として,当時米国で人気があったトランシーバ玩具「ウオーキートーキー」を考えていた。韓国工場で安く製造できれば,RadioShackでよく売れるはずだ。ところが,トランシーバ製造に不可欠な,発振周波数27MHzの水晶振動子が入手できない。頼みの綱である日本の部品メーカーも首を振るばかりだ注4)

注4) 内海は当時,取引先の日本メーカー数社に相談した。内海の韓国工場はまだ立ち上がったばかりで先行きに不安があるとして,供給をためらう企業もあったようだ。

 韓国国内を八方探し回った内海は,東洋通信機と韓国の財閥が合弁で立ち上げていた「一信東洋(イルシントンヤン)」という企業を見つける。そこで副社長を務めていたのがLeeだった。Leeは韓国の大学で電波伝搬分野の教壇に立った経験もあり,技術に明るかった。内海の質問に対し,水晶振動子の特性や製造の難しさなどを,懇切丁寧に説明したという。

 内海は1カ月ほど同社に通い,Leeを説き伏せ,最終的には27MHzの水晶振動子の供給契約を結ぶ。この時の経験から,内海はLeeの人物にほれ込む。自分が韓国から日本に帰任する際にLeeを引き抜き,自らの後釜としてTandy社の韓国購買部門の社長に抜擢した。

 Leeの大学教員時代の教え子の多くは韓国Samsungグループや韓国Lucky-Goldstar社(現LG Electronics社)といった電子機器メーカーに就職していた。また,大学を通じた学会や,官界にもコネクションを持っていた。この人的ネットワークが,後に内海がフィンランドNokia Corp.との合弁工場を韓国につくる際などにも役立ったと内海は振り返る。

「私の人生を誤まらせた人」

 Leeにとっても,内海との出会いは良くも悪くも,その後の人生を決める出来事となった。

 1980年代に入り,Leeは内海から韓国工場の経営を任される。ところが,同工場で1985年に,工場のリストラなどを巡った労働争議が勃発する。 Leeは,経営側代表として女子工員らに拉致され,韓国のソウルにあるTandy社のオフィスに軟禁されてしまった。韓国国内で大きな騒動となって治安部隊が出動したほか,Tandy社がLee救出のため,人質救出専門のエージェントを韓国に派遣するという事態にまで発展した。

右がJ. K. Lee(李重九) 氏。中央は,韓国KTV Global社のCEOを務め ていたJ. H. Lee氏。左 は内海氏。KTV Global 社の新工場完成を祝う 式典で撮影したもの。J.

 約2週間にわたってオフィスに軟禁されたLeeは,工員たちが寝静まった朝方に,ビルの窓ガラスをイスで割って外に逃げ出した注5)

注5) 命からがら韓国を脱出したLeeは,東京・新宿を経由して米国に逃げ延びた。Tandy社はLeeに対し,米国永住権の付与などのサポートを申し出た。ほとぼりが冷めたころにLeeは韓国に舞い戻り,活動を再開している。

「内海さんは,私の人生を誤まらせた人です」

というLeeの口癖は,半分冗談だが,半分本気でもある。修羅場を共にかいくぐった経験は,内海とLeeの結び付きを強めることにつながった。