前編より続く

内海氏は1980年代後半,中 国・東莞に電子機器の製造工 場を立ち上げた。工場候補 地を,何度も見学して決定し た(上写真)。当時の部下と ともに,東莞の周辺を回った (下写真)。当初は,テスタな どを製造したという(左写 真)。

米国の家電チェーン「Tandy RadioShack」のバイヤーとして,アジアをまたに掛けた活躍を見せた内海信二。
その仕事を支えたのは,彼自身がポン友と呼ぶ台湾/韓国の友人と,彼らに連なる人脈だった。
2010年,80歳を迎えた内海の元を訪れる企業は,今なお後を絶たない。
希代のバイヤーが,日本のエレクトロニクス産業にもたらしたものとは何だったのだろうか。

 日本から,台湾,韓国,そして中国─。内海信二(1980年代後半は,タンディー・エレクトロニクス・ジャパン 代表取締役社長)は,1970年代から1980年代にかけて,米国の家電チェーン「Tandy RadioShack」向け製品のアジア地域の調達業務を一手に握る,すご腕のバイヤー(購買担当者)として名をはせた人物である。

内海氏は1970年代後半に, 韓国・馬山に工場を立ち上 げる際に,韓国内のいくつか の工場を視察した。写真は, ある電子機器メーカーの製 造ライン。

 2010年─。1987年に米Tandy Corp.の仕事を退いてから,既に20年以上経過した。80歳を迎えた内海はしかし,いまだに現役の仕事人である。彼を頼りにする企業が後を絶たないからだ。実際現在も,ある大手電機メーカーの中国進出を手助けしている。

 企業が内海を頼るのは,彼が仕事を通じて培ったアジアの強力な人脈故である。特に,内海自身が「ポン友」と呼ぶ二人の人物,「荘さん」こと台湾のC. S. Chuang(荘昭瑞)と,韓国のJ. K. Lee(李重九)との深いきずなは象徴的だ。彼らから広がったつながりが,ある意味,内海が仕事から離れることを許さないとも言える。

「分かった,全部買おう」

 現在,台湾Inventec(英業達)グループで役員を務めるChuangと内海が出会ったのは,1976年の夏である。内海は当時,日本のシステックというメーカーから電卓を買い付け,米国のRadioShack向けに展開する業務を担当していた。ところが,激化する電卓戦争の余波を受け,システックが突如倒産してしまう注1)。電卓の受注を大量に抱えていた内海は,途方に暮れた。

注1) システックは当時,米国市場向けの家庭 用ゲーム機を手掛けるなど,電卓以外の事業 進出も目指していた。それが結果的に,任天 堂が家庭用ゲーム機に参入するきっかけにな ったといわれている。任天堂が1970年代後 半に発売した初期の家庭用ゲーム機の多くは, もともとシステック向けに開発された三菱電 機のゲーム機用LSIを使っていたからだ。シ ステックの倒産によって宙に浮いたLSIが任 天堂に持ち込まれたことで,同社のゲーム事業 が始まったとも言える。