内海は大慌てでシステックに向かい,同社の下請けの台湾メーカーが電卓の在庫を持っていると聞き付けた。早速,台湾に乗り込んだ内海が向かった先が,当時電卓を製造していた台湾Zeny社である注2)。そして,Zeny社で電卓事業を仕切っていたのがChuangだった。

注2)Zeny社はAuroraグループの関連会社 である。当時は,シャープやキヤノンと取引が あった。

 内海とChuangは,すぐに意気投合する。日本語が堪能であったChuangは日本の電子機器メーカーとの取引も多く,その事情にも精通していた。

「内海さんの電卓のオーダー(受注)は,我が社が責任を持って引き受けよう。ただし…」

「え,何ですか?」

「その代わりに,私のお願いも聞いてくれないか」

 Chuangは当時,欧州のあるメーカーから受注した電卓の在庫を大量に抱えていた。発注元の欧州メーカーが倒産してしまったからだ。Chuangの願いとは,これを内海の力で何とかしてほしいということだった。

「よし,分かった。やりましょう」

 内海はそう言うと,Chuangの目の前で,Tandy社の購買部門の欧州市場担当者に電話をかけた。

「欧州市場向けの電卓製品が大量にある。買ってくれないか」

 内海はこうして,Zeny社が抱えていた製品の在庫を一掃した。Chuangは大いに喜び,それ以来,内海に強い恩義を感じるようになった。

「知り合えただけでいい」

 Chuangとの関係は,内海にとって大きな財産に育つ。彼が台湾の電卓業界のリーダー格にあったからだ。当時の台湾電卓業界には,Ray Chen(陳瑞聰)やBarry Lam(林百里),Stan Shih(施振栄)といった若手の有望な人材がいた。Chuangは,こうした世代を育てた業界の先輩である。

 彼らはそれぞれ後に,Compal(仁寶)社,Quanta(廣達)社,Acer(宏碁)社を立ち上げ,台湾のコンピュータ産業の世界進出を担っていくことになる。こうしたChuangの「電卓人脈」は,内海がコンピュータ製品などを手掛ける際に大いに役立っただけでなく,日本と台湾,中国をつなぐ内海の仕事を長く支えることになる。

 台湾コンピュータ業界での内海の名声を物語るエピソードが一つある。1987年にTandy社およびRadioShack関連の仕事を退いた内海は,西和彦に請われてアスキーに参加し,ある情報機器の開発プロジェクトを立ち上げる。Chuangの紹介で製造を担当する企業も,台湾Arima(華宇)グループと決まった。

 ところが,内海が体調を崩して入院したことをきっかけに,プロジェクトが頓挫する。Arima社との仕事はご破算になり,同社の先行投資は水泡に帰した。ところが,Arimaグループを率いるStephen Lee(李森田)は怒るどころか,こう言ったという。

「あの有名な内海さんと知り合いになれただけで幸せだ」

 その言葉に偽りなく,Leeはその後,Arima社の全額招待で,中国・上海を1カ月近く観光する機会を内海に用意したという注3)

注3) その後内海は,Ari ma 社の活動をさまざま な面から支援する。A&Aジャパンで内海が厚 い信頼を寄せていた,部下の 大瀧良勝(現在はモーダスリ ンク ジャパン ディレクター, 右写真)に,Ari ma社の日本 関連事業を任せたのも,同社 への強い思い入れがあったた めだ。大瀧はその後,Ari ma 社のLED事業など手掛けた。