前編より続く

 そんなある日,京セラから内海に連絡があった。コンピュータの新製品に関して相談があるという。

アスキーの西と京セラが共同で

 もしやと考えた内海が早速,京都の本社を訪れると,思った通りだった。京セラは当時,アスキーの西和彦と共同で,ポータブル型コンピュータの開発を進めていた。それを,Tandyブランドで,全米のRadioShackの店頭で販売できないか,という打診であった。

 京セラの会議室には,西も来ていた。西が京セラとポータブル型コンピュータの開発に共同で取り組むようになったきっかけは,西と京セラ会長の稲盛和夫が偶然飛行機で隣り合わせに座ったことだった。この時西は既に,Microsoft社のBill Gatesとともに,理想のコンピュータ作りに走りだしていた。米国のサンフランシスコから日本に向かう長いフライトの間,西が稲盛にコンピュータの理想像について熱く語ったであろうことは想像に難くない。

 当時Tandy社は,TRS-80のカラー対応機などを販売していた。売れ行きは順調だったが,そろそろ次の人気商品が求められていた。ポータブル型コンピュータとなれば分かりやすく,市場の受けもいいに違いない。

相談に乗ってほしい

「我々にやらせてください」

 内海は京セラの提案を承諾すると,早速,米国のTandy本社に電話をかけた。電話の相手は,Tandy社でコンピュータ部門を担当していたJon Shirleyである。

「西という日本の若者が,ポータブル型コンピュータを開発した。是非, Tandyブランドで販売したい。米国展開の相談に乗ってほしい」

 その後,西とGatesはShirleyを介して,Tandy社に開発品を売り込んだ。これがダメ押しとなり,Tandyブランドで全米展開することが決定した。

次期モデルに「薄さ」を求めた西和彦

 TRS-80 model 100は,西和彦のアイデアを基に,京セラが設計・製造した。Tandyブランドでの販売のほか,NECやイタリアOlivettiなどのブランドでも販売された。京セラは西のアイデアを具現化しようと,セラミック基板を使ったモジュールを開発するなど,当時の最先端の技術を注ぎ込んだ。

西和彦氏と,同氏が開発に携わったIBM互換のノート・パソコン(左と中央)。鳥取三洋電機が開発した。右が京セラと開発したTRS-80 model 200。

 西は,model 100の成功を受けて,次期モデルである「model 200」では,より薄型の機種を目指すべきと主張した。「厚さを半分にしてくれ,と言った」(西)。model 100の筐体を水の中に浸し,「出てくる泡の分だけ薄くできるはず」と迫ったという。しかし,Tandy社では,より画面サイズの大きな新製品を目指しており,その思いは聞き入れられなかった。西はその後,別の企業とともに,理想のパソコン作りを進めることになる。