佐々木はそう言うと,机の上の電話の受話器を取り上げ,その場で電卓の事業部に電話をかけた。

「あのなー,これからTandyの内海君という人がそっちに行くから。よろしく頼むで」

 さすが,「ロケット佐々木」と異名を取った佐々木である。内海があぜんとしている間に,事業部の了解を取り付けてしまった。内海はその足で事業部を訪れ,シャープの開発陣との協議に入った。長年電卓を手掛けてきた技術者ばかりで, BASICへの関心も高い。話はトントン拍子に進んだ。この時のシャープ側のメンバーには,その後同社取締役を務める橋本伸太郎などがいたという。

シャープで電卓やポケコン,パソコンの開発に携わった橋本伸太郎氏。同社 取締役 情報家電開発本部長,マルチメディア事業推進本部長などを歴任した。橋本氏が携わった製品には,電卓「コンペット」や「エルシーメイト」,関数電卓「ピタゴラス」などがあった。

 そして1980年にRadioShackは,シャープ製のポケコンをTandyブランドの「TRS-80 PC-1」として発売する。PCは「pocket computer」の略だ。QWERTYキーや24ケタの液晶表示部を備え,RAMは1K~2Kバイトだった。価格は169.95米ドルと,200米ドルを切る設定もあった。RadioShackのカタログには丸々1ページを割いて,「yesterday’s science fiction to life at amazingly low price」(昨日までのSFの世界が,驚くほど安い価格で手に入る)と,誇らしげに書かれていた。

 PC-1は,内海の期待通り大ヒットし,米国のコンピュータ・ファンをとりこにした。磁気テープを使ったデータの外部記録装置や小型プリンターなど,周辺機器がそろっていることもヒットを後押しした。PC-1のヒットを受け,シリーズは拡充された。当初のシャープ製の「PC-1210」,「PC- 1500」などを基にした製品に加えて,カシオ計算機もその後,同シリーズにポケコンを供給するようになった。

ポータブル型コンピュータへ

 米国市場にポケコンが紹介され,人気を集めていたのと同じ1980年代の前半,日本でもパソコンの大ブームが起きていた。

 NECのPC-8800/9800シリーズが登場したほか,米Microsoft Corp.のMS-DOSが登場し,IBM PC互換機も数を増していた。BASICなど,ソフトウエアやパソコン用ゲームに関する雑誌も数多く創刊された。パソコンを所有したいと思いつつも,金額的な理由からポケコンを購入し,BASICを楽しんでいた若者も多かった。

 内海はこうしたブームを見て,いずれはパソコンとポケコンの間に大きな市場が登場すると予感した。ポータブル型のコンピュータ,つまりノート・パソコンである。

 当時,パソコンといえばデスクトップ型で,大きなモニターとともに使うのが当たり前だった。その対極にあるのがポケコンであり,これならどこへでも持ち運びできた。しかし,ポケコンでは処理できることが限られている。いずれ,もっと高度な処理を外出先で行いたいと思うユーザーが出現するに違いない…。

=敬称略