前編より続く

 東京・西新宿。まだ超高層ビルの建造もまばらだった1970年代の初頭。14階建てのひときわ目立つビル「明宝ビル」に,スーツ姿の男たちが大きなカバンを手に,入っていった。ビル内の事務所に入ると,会議室で長机を挟み,数人の米国人と対峙するように座る。男たちはカバンの中からラジオやオーディオ機器を取り出して,時間を気にしながら早口で説明を始めた。

日本の製品を世界で売る男達

「駄目だ。これは売れない。次」

 中央に座るかっぷくのいい米国人が指示すると,男たちはがっくりと肩を落としながら部屋を出ていく。入れ替わりに,別の男たちが入ってきて,他の製品の説明を始める…。

 この会議室があったのは,「Tandy RadioShack」の日本地域の購買業務を一手に請け負っていたA&Aジャパンの西新宿オフィスである。ここで年に数回,Tandy社の米国人バイヤー同席の下,どのメーカーの,どんな製品を購入するかを決定する会議が催されていたのである。

当時のシャープの役員応接室で撮影された写真。前列左端が,シャープの佐伯氏。1970年から社長に就任し,1986年に会長となる。前列右端が山縣虔氏の妻であり,A&A会長の山縣洋子氏(マダム山縣)。内海氏は後列右から2番目。山縣洋子氏の左どなりに座るのが,Bernard Appel氏である。
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ミスターRadioShack

 すべての決定権を握っていたのは,Tandy RadioShackの名物バイヤーであるBernard Appelだ。通称バーニヤ。RadioShack社の社長を長年務め,「ミスターRadioShack」とも呼ばれる。彼が出席する購買決定会議は,彼のイニシャルから「BAミーティング」と呼ばれた。

 Tandy社に製品を売り込みたい,ありとあらゆる日本メーカーの担当者が,この会議室にやって来た。一つの製品の説明に許される時間は20分程度。それで「売れる」と判断されれば,その場で取引成立である。販売される製品は,即断即決される仕組みだった。

 バーニヤの来日は年に数回。これに合わせて,日本のエレクトロニクス・メーカーと事前協議し,米国で売りやすい製品の企画を提案したり,価格引き下げの事前交渉を行ったりするのが,A&Aジャパンの内海の仕事だった。

「なあ内海さん。いくらやったら,買うてくれますの」

 内海はいつも,あいさつがわりにこんな質問を受けていた。内海はメーカーにとって,Tandy社との取引を成功させるためのノウハウを与えてくれる,貴重なアドバイザーだった注2)

注2) A&Aジャパンは,山縣虔氏が米国に設立したA&A Internationalの日本支部に当たる。山縣氏は,片岡電気(現アルプス電気)や立石電気(現オムロン)など日本メーカーの製品を米国市場に紹介したことで知られており,その功によって後に勲五等瑞宝章を授与された人物である。その山縣氏と,Tandy社のCharles D. Tandy氏が親しかったことから,A&A Internationalが購買流通を引き受ける形となっていた。西南学院大学を1950年に卒業した内海は,繊維関係の輸出関連企業(日本トレイディング)などで働いた後,親戚の紹介により,1966年にA&Aに入社した。