しかし,PCムービーの開発は開始早々,暗礁に乗り上げる。先に発売したiDshotが売れなかったからだ。

 iDshotは「iD PHOTO」と呼ぶ新規格の光磁気ディスクを採用していた注1)。この開発が難航したため,iDshotの出荷時期は当初の予定から2年近くも遅れてしまっていた。加えて,iDshot向けに開発した動画ASICも遅れた。「試作したチップが一発で動かず,作り直しが6~7回も続いた」と,ASIC設計を担当した春木俊宣(現・デジタルシステムカンパニー DI事業部 技術部 部長)は明かす。

 iDshotが市場に登場したころには,既にiD PHOTOに匹敵する大容量のメモリ・カードが登場していた。三洋電機に続く予定だったオリンパスが開発を中止した時点で,iD PHOTOの命運は尽きてしまったのである。

 こうした状況の中で,iD PHOTOを採用した後継機であるPCムービーの開発も,見直さざるを得なくなっていた。PCムービーの開発に最も反対したのは,事業部長だった小野寛である。PCムービーの動画は640×480画素。DVカメラの720×480画素の動画に比べると,画質でやはり差があった。「中途半端な画質のムービーが,売れるわけがない」。

 小野は過去にビデオ・カメラ事業から撤退した苦い経験があり,同じ轍を踏むわけにはいかないと考えていた。

iDshotの後継機では1GバイトのSDメモリーカードにテレビ品質の動画を1時間記録すること を目指し,従来のMotion JPEGに代わり,MPEG-4を採用した。三洋電機の資料から。
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 塩路は先行きが見込めないiD PHOTOの代わりに,SDメモリーカードの採用を提案する。当時,SDメモリーカードは512Mバイトの大容量品が出始めており,1Gバイト品の出荷も近いとうわさされていた。塩路は1GバイトのSDメモリーカードに1時間の動画を記録できる商品を目指し,動画の圧縮方式を従来のMotion JPEGから,MPEG-4に切り替えることも提言した。しかし,依然として開発の許可は下りなかった。

 塩路はPCムービーを何としても完成させたかった。失敗の烙印を押された前作のiDshotだったが,実はビデオ編集ソフトを扱う企業やクリエーターたちには高く評価されていた。DVカメラなどに比べて,はるかに簡単に動画データをパソコンへ取り込めたからだ。塩路は,後継機であるPCムービーを物にして,動画デジカメならではの使い方を世に広めたかった。

 その気持ちは,塩路と共に開発に携わっていた重田や春木も同じだった。そんなある日,重田と春木はカンパニー・トップの壽英司に相談を持ち掛ける。SD メモリーカードを使った小型のムービーを開発したいと考えていると事情を打ち明けた。すると壽は,「それなら,横断化プロジェクトを利用したらいい」とアドバイスしたのである。

 2001年にカンパニー社長に就任した壽は,カンパニー内の技術を持ち寄って新しい商品を作る横断化プロジェクトを立ち上げようとしていた。壽の持論は,「どんなに営業が強くても,商品に力がなければ売れない」というもの。事業を強化するためには,何よりもまず強い商品を生み出すことが先決と考えていた。重田らにとって,壽の提案は渡りに船だった。横断化プロジェクトの成果として商品企画がまとまれば,小野も商品化に同意するに違いない。重田はすぐにこのことを塩路に伝えた。こうしてPCムービーの開発は,かろうじて継続されることになった。