前編より続く

1994年6月に発売,たちまちヒット商品となった「MJ-700V2C」。
だが,開発陣はモノクロ印刷の品質では納得できず,
その1年後に投入したプリンタで,黒インクを替えた。
ところが,それが原因で問題が発生,評判はみるみる落ちてしまう。
あせった開発陣は応急処置を施して新たなプリンタを製品化する…。
こうした一連の「試練」を通じ,
プリンタの基本的な技術がほぼ完成してきた。

セイコーエプソンのプリンタの開発拠点となっている広丘事業所。JR 塩尻駅(長野県塩尻市)から車で15分程度の場所にある。(写真:セイコーエプソン)
図1 シェアを落としたセイコーエプソン
1996年,プリンタの年間販売台数は増えたものの,セイコーエプソンの市場でのシェアは39.0%と,39.9%を占めたキヤノンにトップの座を奪われてしまった。1995年6月に発売した「MJ-700V2C」の次機種の不評を受け,1996年6月に新機種「MJ-810C」を投入するが,1996年の1年間でみるとシェアを落とした。1997年7月10日付『日経産業新聞』から。

 ――あのときのインクの選択は,結果的に見れば間違っていたということでしょう。「MJ-700V2C」(1994年6月発売)の大ヒットでせっかく勝ち得た評価を,1年後に投入した次機種で落とすことになってしまったわけですから…。

 それまで市場でのトップ・シェア争いは,ウチとキヤノンが互いに抜きつ抜かれつという状況でした。それが,次機種を発売した後の1995年~1996年にかけては1位がキヤノン,2位がセイコーエプソンと差がハッキリついてしまいました(図1)――。

 プリンタ開発者の一人,碓井稔氏はこう振り返る(図2)。碓井氏のいうインクの選択とは,大ヒットした「MJ-700V2C」で初めて用いた「超浸透型」と呼ぶインクを,「MJ-700V2C」の次に発売した機種では替えてしまったことである。「替えた」といっても,新たに開発したインクを選んだのではない。「MJ-700V2C」の前の機種,つまりインクを替えた新プリンタからみると,2機種前で使ったインク「緩浸透型」に逆戻りしたのだ。しかも代えたのは黒インクだけだった。

満足していなかった開発陣

 ――こうした選択をしたのは,ワケあってのことです。評判が高く,良く売れた「MJ-700V2C」でしたが,実は開発陣からするともろ手を上げて「やったあ。予想通りに売れた」という雰囲気ではありませんでした。

 当時はカラー印刷というよりモノクロ印刷が主流です。だから,ユーザはインクジェット・プリンタのモノクロ印刷でも,レーザ・プリンタ並みのクオリティを望んでいたのは確かでした。ただ,ウチとしては「MJ-700V2C」ではカラー印刷ということを前面に押し出した。とにかく,「きれいなカラー印刷」をウリにしたんです。

図2 主にプリント・ヘッドの開発を担当した碓井稔氏(左)と主にインクの開発を担当した大渡章夫氏(右)
碓井氏は1979 年に入社。2000年2月末にそれまでの情報画像事業本部TP開発センターIJ開発部部長から,同センター総括部長兼IJ開発部長になった。大渡氏は1978 年に入社。同じく2000年2月末にそれまでの情報画像事業本部IJ機器企画設計センターIJ設計部部長からTPサプライズ事業センター総括部長兼IJ設計部部長になった。(写真:小杉善和)