前編より続く
セイコーエプソンで,主にプリント・ヘッドの開発を担当する碓井稔氏。1979 年,セイコ ーエプソンの前身である信州精機に入社,現在の肩書は,情報画像事業本部TP 開発センターIJ 開発部部長である。(写真:小杉善和)
図1 プリント・ヘッドのキャビティ部
キャビティ部全体は,1 円玉にちょうど隠れるくらい の大きさである。数十個ある小さな穴がノズルで,ここからインクが飛び出す。それぞれのノズルから横方向に延びている細長い溝が,インクをためるキャビティである。(写真:セイコーエプソン)

1992年の年末商戦に向け,ヘッド開発を進める碓井稔氏(写真)。開発部と設計部の異動を繰り返した末,インクがきちんと飛ぶヘッドの開発に行き着き,プリンタを完成させた。同時にこのヘッドを使って,カラー・プリンタの開発に大渡章夫氏が着手する。途中までは順調に進んだが…。今回,前半部は碓井氏,後半部は大渡氏が振り返る。

 私はそれまでいた開発部から設計部に異動することになりました。1991年3月終わりのころだったと思います。開発したての小型プリント・ヘッドを使って,1992年の年末商戦機種を本格的に開発するためです(図1)。ただ,ヘッド自体はまだ未完成。インクがきちんと飛んでいなかったんです。そんな状況だから,「異動するのはまだ早いんじゃないの」なんて言われました。

 でも,いいプリンタを一刻も早く市場へということで,みんな必死になっていた。だから,私もそれにこたえようと思ったわけです。「時間をかければなんとかなるだろう」と,甘く見ていた部分もありますが。

数カ月で元の部署へ出戻り

 それから1~2カ月間は試行錯誤の連続。なんとかインクをまっすぐ飛ばそうと。

 でも,なかなかうまくいかなかった。いろいろやってはみたんです。でも,ことごとく失敗。そんなこんなで5月~6月ころになると,周囲がだんだん騒がしくなってきた。「こんな状況で本当に間に合うのか」なんて言われ始めて。

 そんなことはわかってますよ。こっちだってあせってる。でも,実験にばかり没頭しているわけにもいかないんです。設計部は開発部とは違って,具体的にどういう製品にするかとか,製品企画に関することまでやらなきゃならない。プリント・ヘッドの圧電素子に加える周波数をいくらにするとか,ヘッドの外形寸法をどうするとか。とにかく考えなければならないことが山のようにある。

 ただ,ヘッドの基本技術が固まっていないのに,そのヘッドを製品企画に沿ってカスタマイズしても意味がない。そうしたからって,インクがきちんと飛ぶわけではないですからね。それどころか,こんなことをやっていると,技術がダメなのか製品企画がダメなのか,何が何だかわからなくなってしまう。「一体,どうなっているんだ」なんて言われる始末です。そんなこと聞かれても答えられない。聞きたいのはこっちの方なんだから。

 こうなると,もうパニック。自分でもだんだん疑心暗鬼になってくる。「これじゃなくて,もっと別の技術でやったほうがいいかもしれない」なんて弱気になって。