ところが,いざミューチップを発表してみると,これまでのように自分たちのペースで研究を続けることは難しいことが開発チームには分かってきた。有望なアプリケーションをいち早く事業に結び付けたいという営業部門のプレッシャーが,一気に押し寄せてきたためだ。
開発発表の裏に涙
営業部門が最初のアプリケーションとして白羽の矢を立てたのは,鋼板の在庫管理だった。ミューチップの発表を見た鋼板メーカーの担当者が「ぜひ使ってみたい」と連絡してきたことがキッカケとなって話が進んだ。
鋼板の寸法や組成は,用途ごとにまちまちだ。鋼板メーカーはこれらの鋼板を同じ場所で保管している。見た目は似ているが仕様が異なる鋼板を管理するには,1つ1つを認識する手段が必要になる。それまではバーコードを印刷したシールを張ることで対処してきたが,表面が汚れると読み取れなくなるといった問題があった。電波で通信するミューチップならば,こうした問題を一挙に解決できるはず,というのが鋼板メーカーの担当者の考えだった。
営業部門の要請を受けた宇佐美は,何はともあれ現場を見てみようと,千葉県船橋市にある鋼板メーカーの倉庫に向かった。倉庫で宇佐美を出迎えたのは,背丈以上の高さまで山積みになった巨大な鋼板。0.4mm角しかないミューチップのことばかりを考えてきた宇佐美にとって,そのギャップはあまりに大きかった。
ミューチップを取り付けるとしたら,ほかの鋼板と接触しない端面しかない。ところが,大小さまざまな寸法の鋼板の端面は全くそろっていない。中にはほかの鋼板から端面が50cmも奥まっているものもあった。アンテナを外付けすることで30cm~40cmの通信距離を確保できたとしても,ミューチップからの電波は読み取り装置まで届かない。だからといって鋼板の端面をそろえて重ねると,鋼板同士の重心がずれて,山が崩れる恐れがある。
「センサを棒の先に付けた読み取り装置を開発するしかないな」
宇佐美はその場で決断した。このほかにも解決すべき問題は山積していた。例えば,鋼板のような電波を吸収する物体にミューチップを取り付けることは,開発段階ではあまり想定していなかった。しかも,鋼板は野外で保管することもあるため,水滴が付いた状態でもミューチップと通信できることを保証しなければならない。このほか,ミューチップのID番号を管理するサーバ側のソフトウエアの開発も手掛ける必要があった。