前編より続く

 極薄ICカードの実用に向けて,宇佐美には解決すべき課題がもう1つあった。チップとアンテナをつなぐ手法の確立である。カードの厚さを250μm以下に収めるには,できるだけ接続部を薄くする必要があった。

 これについては,果報は向こうからやってきた。アクションフェアで極薄チップの展示を見た日立化成工業の担当者が宇佐美を訪ねてきたのだ。

「宇佐美さん,極薄チップにはこれが使えるはずです」

 担当者が持ってきたのは,異方導電性の接着剤だった。直径10μm程度の導電性粒子を含むエポキシ樹脂のフィルムで,常温では固体だが+120℃程度の熱を加えると融解し,それ以上に熱すると硬化する性質を持つ。硬化した状態ではフィルムの厚さ方向は導電性があるが,平面方向には電気を通さない。チップとアンテナの接続部をできるだけ薄くしたい極薄ICカードにはうってつけの材料だった。

 異方導電性接着剤は,携帯電話機に搭載する液晶パネルとドライバICの接続などでは実績があったが,広く知られている素材ではなかった。もちろんIC カードに使われたこともない。担当者の売り込みがなければ,この素材に巡り合うまでにどれだけ時間がかかったことか。宇佐美には運も味方していた。

いきなりの大口顧客

 アクションフェアから2年たった1996年4月。極薄チップを使った非接触型ICカードの事業化が正式に決まった。大型計算機を作っていた神奈川工場が,新規事業として極薄ICカードに白羽の矢を立てたためだ。世の中にICカードが普及すれば,それを支えるコンピュータ・システムの新規需要が期待できると判断してのことだった。宇佐美もそのころには,スピン・エッチング装置を使う極薄チップの製造手法を何とか確立していた。

 事業化が正式決定したことで,宇佐美を取り巻く環境はガラリと変わった。開発資金を得たことで,10人程度の開発チームを組織できるようになった。それまで1人でコツコツと研究していたことを考えると雲泥の差だ。研究から事業への変化の大きさを宇佐美はあらためて実感した。

 開発は順調に進み,1996年11月には試作品が完成した。そんなある日,宇佐美のところに極薄ICカードの営業担当者がやって来た。

「宇佐美さん,まずはNTTに行ってみましょう」

「えっ?」

 いくら事業になったとはいえ,ほんの少し前までは宇佐美1人が研究するテーマでしかなかった出来立てホヤホヤの技術を,よりによってNTTに売り込みにいくとはいかがなものか。大口顧客が付いたところで,技術的な問題がもし露呈したら開発者としてどう責任を取ればいいのだろう。いきなりの急展開に,さすがの宇佐美もたじろいだ。

ICテレホンカードに対応した公衆電話機。1999年3月に導入が始まった。
ICテレホンカードに対応した公衆電話機。1999年3月に導入が始まった。

 結局,営業担当者の熱意に押される形で,宇佐美は新宿にあるNTTの本社に向かった。1996年12月のことだ。当時NTTは,偽造事件が相次いでいた磁気式テレホンカードの代替として,公衆電話機にICカードを導入することを検討していたが,宇佐美はこのことすら詳しくは知らずにいた。

「えーっ,このたび我々が開発致しましたICカードの特徴は,非接触型でしかも,とても薄いということです」