前編より続く

 デバイス開発センターに移ってから約3年がたった1979年の冬。宇佐美は雪の米国フィラデルフィアに降り立っていた。生まれて初めての海外渡航。緊張しつつも,胸中は自信に満ちあふれていた。「IEEE International Solid―State Circuits Conference(ISSCC)」での晴れ舞台が待ち構えていたからだ。半導体の勉強を本格的に始めてからわずか数年で「半導体のオリンピック」とまでいわれる国際学会に論文を認められるまでになった宇佐美に,周りの同僚は驚きを隠さなかった。

天国と地獄

 その後も,宇佐美はデバイス開発センターで大型計算機に搭載するLSIの開発に邁進する。コンピュータ産業の技術を牽引するひのき舞台だった大型計算機の開発に携わる日々は,まさに興奮の連続。豊富な開発資金を使って最先端の技術開発に専念できる環境に,技術者として幸せを感じていた。

 もっとも,デバイス開発センターでの宇佐美の業務は,決して楽なものではなかった。顧客に納めたコンピュータが不具合を起こし,開発担当者としてその対策に奔走することが日常茶飯事だったころもあった。

「まただよ。おたくのコンピュータは一体どうなっているの?」

「すっ,すいません。すぐに原因を突き止めます」

 急を要する顧客のために夜通し不良を解析して原因を突き止め,夜中の3時に待ち構える顧客に説明しにいった経験もある。「ハッ,ハッ,ハッ,ハ…」。あまりにつらいと,人間は笑ってしまうことがあるのを知ったほどだ。

 日立製作所のコンピュータ部門は当時,年に2回「事故反省会」を行っていた。社外で起こった事故のうち特に重要なものが3,4件指定される。すると該当する担当者は不具合の原因を徹底的に分析した結果を,事業所長以下30人ほどの上司の前で発表しなければならない。不具合に追われていたころの宇佐美は,この会に招集される常習者だった。立て続けに4回も発表する羽目になったほどだ。

 発表者は反省会に先立って,A4判ほどの大きさにまとめた分析結果を提出しなければならない。「今回の事故は設計時の検証が足りなかったから起こった」「検証が足りなかった原因は時間管理ができていなかったため」「時間管理ができていなかったのは…」といった具合に,原因を少なくとも5個の要素にさかのぼって自問自答し,そこから結論を導くことが求められた。

「フーッ…」

 担当者の糾弾ではなく他の部署と事故原因に関する情報を共有するのが目的ではあるものの,真っ白な提出用紙を前に宇佐美の気分は毎回沈んだ。

よみがえる技術者魂

 デバイス開発センターに移って10年がたったころには,宇佐美は20人ほどの部下を抱える管理職になっていた。不具合の問題に追われることも減った。 LSIの開発は部下が順調に進めていたため,宇佐美自身が直接かかわることはなくなっていた。ちょうどそのころ,デバイス開発センターは新しく建設した建物に移ることになった。職場のレイアウトやロッカーの位置をどうするかといった引っ越しの準備を買って出た宇佐美は,そのまま半年以上もその業務にかかりきりになった。

 そんな宇佐美は,自分の胸にある思いが徐々にわき上がっているのを気付いていた。開発の現場から遠ざかれば遠ざかるほど,技術者としての本能がむくむくと頭をもたげてきたのだ。かつてあれほど自分を悩ませた不具合。特に気になっていたのはLSIだ。チップ上を走る無数の配線のうちたった1本が切れただけで,高い費用を投じて製造したチップが無駄になるのをこの目で何度となく見てきた。