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「3年待とう。3年でナンバー・ワンを取ってほしい。それが君たちの使命だ」――。

 キックオフ会議に待ち構えていたのは,松下グループの幹部陣。当時,松下電器産業のAVC社 社長を務めていた戸田一雄や,AVC社 副社長の大坪文雄,半導体社 社長だった古池進らが顔を並べる。研究所や事業部の幹部を含めて,総勢40人ほどだ。

 そこに呼び出されたのがふさ忍と友石啓介,そして嶋正義の3人である。時は2000年11月8日。まさにその時,松下電器産業がデジタル・カメラ事業に本格参入するとかじを切った瞬間だった。

 5カ月前,松下電器産業の社長に中村邦夫が就任する。「破壊と創造」を掲げて大胆な構造改革を断行し始める。長き伝統として続いてきた系列販売店を巻き込んだ家電の流通改革,事業部制の解体,そして大規模な人員削減――。大胆な「破壊」の施策がエレクトロニクス業界の耳目を集めたそのころ,水面下で「創造」に向けた布石も打たれていたのだった。その最初のプロジェクト,それがデジタル・カメラ市場への本格参入だった。

「これは本気や…。マジでやる気や」

 会議でデジタル・カメラ事業への参入を指示した中村のメッセージが伝えられる。「3年でナンバー・ワンの市場シェアを獲得せよ」という言葉は,房と友石の目を覚ますのに十分だった。2人は身震いせずにはいられない。これまで据置型VTRとビデオ・カメラの商品企画で実績を積んできた房,そしてやはり据置型VTRで開発を指揮していた友石。2人はまさにプロジェクトを先導する役割を期待され,責任者の嶋が選抜したのだった。

行くも地獄,戻るも地獄

 3年でナンバー・ワン――。当時の状況からすると,これは常軌を逸した指示と言っていい。デジタル・カメラ市場における松下グループの存在感は,ハッキリ言ってその時点で皆無に等しかった。ゼロから事業を立ち上げる必要があったのだから。