カメラの進化を,メカトロニクスとエレクトロニクスが両輪となって支えるようになって久しい。
手ブレ補正技術もやはり,メカトロニクスとエレクトロニクスの融合から生まれた華麗な成果である。とはいえ,ここまで普及するには数多くの技術者の,華麗とは程遠い地道で実直な努力の積み重ねがあった。
発明の始まりはしばしば,意外な出来事が引き金になる。この手ブレ補正技術も,数々の偶然の積み重ねの中から生まれた。それはある技術者が,ハワイを訪れたことから始まる――。
カメラの進化を,メカトロニクスとエレクトロニクスが両輪となって支えるようになって久しい。
手ブレ補正技術もやはり,メカトロニクスとエレクトロニクスの融合から生まれた華麗な成果である。とはいえ,ここまで普及するには数多くの技術者の,華麗とは程遠い地道で実直な努力の積み重ねがあった。
発明の始まりはしばしば,意外な出来事が引き金になる。この手ブレ補正技術も,数々の偶然の積み重ねの中から生まれた。それはある技術者が,ハワイを訪れたことから始まる――。
開発が進むにつれて携わる仲間が増え,そして多分野にわたる技術者の連携が深まっていった。
「どうだ,動作検証は?」「9合目まで来た感じです。でもトラブルも幾つかありまして…」
2001年1月,松下電器産業に「DSC開発センター」が組織される。開発プロジェクトが正式に組織となり,初代所長に嶋が就任した。当初はわずか20 人ほどのチームだったが,房と友石が指揮を執り,商品企画と技術検討を本格化させていく。
「3年待とう。3年でナンバー・ワンを取ってほしい。それが君たちの使命だ」――。キックオフ会議に待ち構えていたのは,松下グループの幹部陣。当時,松下電器産業のAVC社 社長を務めていた戸田一雄や,AVC社 副社長の大坪文雄,半導体社 社長だった古池進らが顔を並べる。研究所や事業部の幹部を含めて,総勢4…
「これこそ電子式に代わる理想の手ブレ補正技術なんです」。「うーん。そうはいってもねぇ…」。光学式という大方針は固まったものの,開発方針はブレにブレる。何しろ事業部門には,良くも悪くもブレンビーの成功体験があった。光学式への移行はリスクの大きな作業にしか映らない。
群雄割拠の戦国時代――。1990年代のビデオ・カメラ市場は,こう表現するのがふさわしい。当時,熾烈なシェア争いが繰り広げられていた。ソニーが築いた「パスポート・サイズ」の牙城を,松下電器産業は「ブレンビー」で切り崩す。続いてシャープが「液晶ビューカム」を投入。見る見るシェアを伸ばし,1994年には2…
「岸くん,これはまずいわ」「どうかしました?」「カメラが動いてもないのに,画面が動くで。ほら,ふらふらや」
「いらっしゃいませ!」「あの小さいヤツってあります? ほらっ,テレビでやってるパスポートの大きさの」――。
「振動ジャイロで,ビデオ・カメラのブレを補正できるようになりますよ」。大嶋は,社内の各方面に早速働き掛け,技術検討グループを組織する。しかし,周囲の反応はすこぶる悪い。資金を投じて研究テーマに据えるという会社の方針は,なかなか固まらない。
カメラの進化を,メカトロニクスとエレクトロニクスが両輪となって支えるようになって久しい。例えば「自動露出」。写真業界の老舗だったドイツAGFA社が1956年に考案した技術である。今では一般的なスチル・カメラに搭載されるようになり,シャッター速度から絞り値まで最適化している。