これが決め手になった。

 そのころSAGEは,3GPPで近澤らが作成した仕様書を受けて,第3世代携帯電話向けの暗号方式の検討に大わらわだった。SAGEには,厳しい制約条件が課された。わずか半年の間に,暗号アルゴリズムを開発しなければならない。新規の開発をあきらめ,既存のアルゴリズムに手を加える方針を採ったのは,ごく自然の成り行きだった。

 とはいえ,要求項目をすべて満たす暗号アルゴリズムは,どう探しても見つからない。高性能なのに回路は小規模という相反する条件を満たすことが,極めて難しかったのである。そんな折,近澤が提出したMISTYの技術資料がSAGEの目に留まった。

 竹田が「MISTYを世界標準にしろ」との命を受けて4年。松井充が開発に着手してから優に5年はたっていた。その間に営々と積み上げてきた成果に,とうとう日の目が当たった。松井がこだわったDESより高い安全性。市川哲也,反町亨,時田俊雄の共同作業が生んだ,6kゲートと極めて小さなハードウエア。どれを取ってもMISTYは,あつらえたかのように3GPPの要求項目に合致した。

 それでもSAGEには,確認すべき点が1つあった。近澤らが受け取った電子メールは,それを問いただすものだった。その穴には,竹田が下した決断がぴたりとはまった。最後の条件は,「特許を無償で利用できること」だった。

日本語で何て言うんだい

 いったん糸口がつかめると,話はせきを切ったように進んだ。積年の遅れを一気に挽回するごとく,トントン拍子で段取りが決まっていく。3GPPは1999年8月の会合で,第3世代携帯電話向けの暗号としてMISTYをベースにしたアルゴリズムを採用することを,早くも内定した。SAGEは欧州に松井を招聘し,第3世代携帯電話向けに暗号を最適化する作業をスタートする。処理のオーバーヘッド時間を短縮して秘密鍵を頻繁に変更できるように,鍵スケジュール部のさらなる簡素化を図った1)

携帯電話機に「KASUMI」が載る
携帯電話機に「KASUMI」が載る
3GPPは2000年3月,「KASUMI」をW-CDMA方式の無線通信区間に用いる唯一の国際標準暗号として認定した。W-CDMA方式のすべての携帯電話機は,KASUMIの暗号処理回路を搭載することになった。携帯電話機と基地局が無線通信でやりとりする音声データやユーザー・データを秘匿するためにKASUMIを利用する。なおGSM Associationは2002年7月,欧州やアジアで現在主流のGSM方式にも標準暗号としてKASUMIを採用すると発表した。左はNTTドコモの第3世代携帯電話サービス「FOMA」用の端末,右はGSM/GPRS方式向け端末である。いずれも三菱電機製。

 「ミスター・マツイ,MISTYを日本語で言うと何だい?」

 SAGEの会合では,打ち合わせ後にメンバーが夕食を共にするのが習わしだった。最適化の作業が終わりに近づいたころ,新しい暗号の名前が話題に上った。

 「MISTYは『霧』だよ」

 「KIRIかぁ…。ふうん」

 メンバーの反応はいま一つだ。

 「季節によっては『霞』とも言うかな」

 「オーKASUMI!」

 「KASUMI,KASUMI!」

 東洋的な響きに引かれたのだろうか。戸惑う松井をよそに,メンバーは一人残らず「KASUMI」を連呼する。その場で暗号の名称は,満場一致で「KASUMI」に決まった。

 そして2000年3月。ついにその日がやって来た。3GPPは,第3世代携帯電話の無線通信区間に利用する唯一の国際標準暗号として,KASUMIを採用すると発表した。