暗号研究の歴史に名を残す
米国標準暗号「DES」の解読実験を成功に至らしめた「線形解読法」は現在,暗号の分野における重要な研究成果の1つとして認知されている。写真は,1997年に開催された暗号関連の国際会議「CRYPTO’97」で,参加者にお土産として配られたTシャツである。過去3000年にも及ぶ暗号の歴史の中で,公になっている出来事や研究成果の代表例として約20件が紹介されている。最新の成果が,松井充氏が考案した線形解読法。「1994....Linear cryptanalysis」と記されている。なお最古のトピックは「1900BC....Non-standard hieroglyphics」。古代エジプトでは,動物や植物,身の回りの物を形で表した象形文字(ヒエログリフ)を碑文に刻んでいた。紀元前1900年ころのある書記が,標準外のヒエログリフを用いた。これが有史上の最古の暗号文と見なされている。(写真:福田一郎)

MISTYが変えたもの

 KASUMIが第3世代携帯電話の標準に採用され,三菱電機の暗号研究を取り巻く環境は大きく変わった。

 三菱電機の情報セキュリティ事業は,一挙に世界中で認知されるようになった。顧客の信頼感は,それまでとは比較にならないほど高まった。竹田が立ち上げた時,三菱電機の情報セキュリティ事業が擁する人員は,たったの13人だった。現在,竹田の後を継いで事業を引っ張る勝山光太郎の下には,関連会社を含め70~80人もの人材がいる。

 KASUMIそのものも実用期を迎えた。NTTドコモが2001年10月に始めた第3世代携帯電話「FOMA」の端末は,例外なくKASUMIの暗号処理回路を搭載している。KASUMIの採用は,次世代の携帯電話にとどまらない。2002年7月,欧州のGSM Associationは,GSM方式の携帯電話機にKASUMIを利用することを決めた。GSM方式は,欧州やアジアで依然として広く使われている。MISTYの血を引く製品は,ますます裾野を拡大しそうだ。

 「MISTYの唯一の欠点は,若いことである」――。竹田や松井らが,MISTYの売り込みに苦心していたころ,実績に乏しいMISTYは,このように揶揄された。MISTYの仕様が固まってまだ6年。若いことに変わりはないが,若さに不釣り合いなほどの成功を収めた。今やMISTYの実績を疑う者はいない。暗号学会では,早くもMISTYは解読実験の対象になっている。かつて松井がDESの攻略を目指したように,多くの研究者がMISTYの鍵を暴こうと切磋琢磨する。

 今も松井は立ち止まっていない。MISTYが破られる日を見越して,次なる暗号アルゴリズム「Camelliaカメリア」をNTTと共同開発した。DESの後を継ぐ米国標準暗号「AES」の強力な対抗馬だ。三菱電機に入社して十余年。数学者への道を断念した失意の青年は,押しも押されもせぬ暗号研究の権威になった。

 MISTYにかかわった研究者は,それぞれ思いも寄らなかった人生を歩んでいる。MISTYの事業化を先導した竹田は,情報セキュリティの認証事業を手掛ける企業へ移り,新たな挑戦を始めた。誤り訂正符号の仕事を求めて三菱電機に転職した山岸篤弘は,今では情報処理振興事業協会(IPA)で暗号技術の評価事業に奔走する毎日だ。旅行代理店で各国を巡ることを夢見た近澤は,暗号の標準化で世界を股に掛けている。市川と反町は,今も回路規模の削減に日夜取り組む。そして,やっぱり押し掛け相談役を買って出る時田――。

 振り返れば,すべての始まりは,松井の胸に浮かんだ一つの疑問だった。

 「暗号解読って,一体何だろう」  =敬称略

参考文献
1)近澤ほか,「日本発の技術を3GPPが採用,アルゴリズム『KASUMI』の全貌」,「モバイル・インターネット最前線」,日経BP社,pp. 194-199,1999年.

―― 終わり ――