(前回から続く)

ダメもとでいいじゃない

 1999年5月にドイツで開催された第3回目の会議に,近澤は「MISTYミスティ」の技術資料を提出する。同僚や上司に相談すらせず自主的に資料を作成し,出張かばんに放り込んだ。3GPPが暗号技術を募集していたわけではない。文書の宛先には「SAGE」と記した。通信関連の標準化機構ETSI(European Telecommunications Standard Institute)の傘下にある,暗号アルゴリズムの専門グループの名称だ。3GPPでは,暗号アルゴリズムそのものは標準化の対象でなかった。欧州における標準化策定の慣習に従って,暗号の設計はSAGEに依頼することが決まっていた。

SAGE宛に「MISTY」の技術資料を提出
左は,3GPPでセキュリティ関連の仕様を検討するワーキング・グループ「TSG System Aspects WG3」に近澤武氏が提出した「MISTY」の技術文書である。1999年5月にドイツのボンで開催された3回目の会議で差し出した。MISTYの回路規模は,最小版が6kゲートで,その場合の55MHz動作時の処理性能が100Mビット/秒といった情報が記されている。宛先には「ETSI SAGE」とある。SAGEは,欧州電気通信標準化機構(ETSI)に属する暗号アルゴリズムの専門グループである。第3世代携帯電話システムで採用する暗号方式の検討も,SAGEが手掛けた。右は,MISTYをベースにした暗号技術を採用することが内定した1999年8月の3GPPの会議に参加したときの近澤氏の名札である。

 情報セキュリティ技術部に属する近澤にとって,標準化団体へのMISTYの売り込みは,身に染み付いた習性のようなものである。何しろこの4年間,竹田を先頭にして,さんざん苦労を重ねてきた。近澤自身も売り込み歩いて,何度となく辛酸をなめた。それでも,目ぼしい成果は上がらず,依然として経験するのは落選の憂き目ばかりだった。

 今度もきっと同じかな。近澤に,ことさら大きな期待は湧いてこなかった。

SAGEからの電子メール

 近澤の予想は,いい方向に裏切られた。

 「MISTYの特許ライセンス規定について教えてください」

 1999年夏,MISTYの研究グループに1通の電子メールが届いた。送信者はSAGE。あのSAGEから,直々に連絡が入ったのだ。

 まさか,こんなに早く反響があるとは思っていなかった。しかも,具体的にライセンス条件を聞いてくるなんて出来過ぎだ。ひょっとして,ひょっとしたら…。近澤は淡い希望を抱いて,電子メールを送り返す。MISTYの特許は無償で使えるとしたためて。