(前回から続く)

1998年夏,三菱電機は「MISTYミスティ」の基本特許の使用料を無償にする方針を打ち出した。一歩間違えば研究成果を台無しにする道を,恐る恐る踏み出した。その賭けが,大きなチャンスを呼び込む。第3世代携帯電話の標準規格を検討する3GPPが,無線通信区間に用いる暗号方式としてMISTYの技術に目を付けたのだ。そこから携帯電話機向け国際標準暗号「KASUMIカスミ」が誕生する。MISTYの広報発表から,4年半の歳月が経過していた。

 1999年2月。乾き切った空気が頬を刺す厳冬の英国ロンドン。

 「うーん。本当に来ちゃったんだなぁ」

 しきりにぼやいているのは近澤武。三菱電機の情報セキュリティ技術部の一員である。まさか暗号の仕事を続けながら,世界のあちこちを訪ね回ることになろうとは――。

 近澤が三菱電機に入社したのは1986年。三菱電機が着手したばかりの暗号研究に,自ら志願して加わった。ところが「暗号研究を研究の柱に」との掛け声とは裏腹,当時は暗号に対する需要は社内外ともにほとんどなかった。入社後1~2年は,文献や論文を読んで時間を費やす毎日だった。

近澤武(ちかざわ・たけし)氏
三菱電機が暗号研究を手掛けるようになって間もない1986年に入社し,暗号研究に携わるようになる。1998年,電波産業会(ARIB)の次世代の携帯電話に関する研究会に設けられた,セキュリティ関連の作業班で主査を務める。これを契機に,第3世代携帯電話システムの国際標準規格を検討する「3GPP」へ参加することになる。最近は,暗号技術の標準化活動などの仕事を手掛けることが多い。現在の肩書は,同社 情報技術総合研究所 情報セキュリティ技術部 専任である。(写真:福田一郎)

 実は1度,転職を考えたことがある。仕事の少なさに物寂しさを感じて,何か面白い職はないかと探し回った。目を付けたのは旅行会社。旅行が趣味というわけでもなかったが,遠い異国に思いをはせるだけでも,単調な日々から解放される気がした。近澤は,暗号の論文を読む合間に試験勉強を重ね,国内旅行業務取扱主任者の資格を取得する。

 あれから10年。気が付けば,暗号の仕事で世界を飛び回っているのだから,人生は分からない。

軽い気持ちで来たものの

 近澤が遙々はるばる欧州まで足を伸ばしたのは,第3世代携帯電話の国際標準規格を検討する「3GPP(3rd Generation Partnership Project)」の会議に参加するためである。3GPPで,セキュリティ関連の標準化を進めるワーキング・グループ「TSG SA WG3」が主催し,ロンドンのInternational Hotelで開かれた。

 もともと近澤が属する三菱電機の情報セキュリティ技術部は,携帯電話と何ら接点がなかった。こんなことになった発端を思い返せば,1年ほど前に携帯電話機の事業部から舞い込んできた依頼にたどり着く。国内で次世代携帯電話の仕様を検討する研究会に,人材を派遣してほしいというのである。